シューベルト「水車小屋」 ロッテ・レーマン(S) パウル・ウラノフスキ(Pf)レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)の「ロング・グッドバイ」を読む。
フィリップ・マーロウは、自分が正しいと信じたからには最後までやり遂げるタフな中年独身男であるが、少々おしゃべりだ。相手の質問に対しては、必ず皮肉をたっぷんと混ぜ込んだ比喩を展開してけむに巻く。
それは彼自身の独白にもあらわれる。バーで見かけた金髪女が引き金となって、彼は世の中の様々な金髪女について批評を試みる。
なかでも秀逸なのはこれ。
「もやしみたいな顔色をした、貧血症の金髪女もいる。これは命に関わる病ではないものの、かといって治療の見込みもない。彼女は物憂げで、いかにもはかなく、蚊の鳴くような声で話す。この手の女にちょっかいを出す男はたぶんいないだろう。まずひとつにそういう気が起きないからだし、もうひとつには彼女がエリオットの『荒野』や、イタリア語版のダンテ、あるいはカフカやキルケゴールを読み、プロヴァンス語を勉強しているからだ。また音楽にも精通しており、ニューヨーク・フィルハーモニーがヒンデミットを演奏しているときに、六人のベース奏者のうちの一人が、四分の一拍遅れていることを指摘できる。話によればトスカニーニにもそれができるそうだ。そんな人間が世間に二人もいるわけだ」。
いかにも村上春樹が好みそうな寄り道エピソードだ。
息継ぎがなんとも鮮明にわかる録音。音は古いながらも生々しさがリアルに感じられるからよいと言うべきか、もしくはもう少しなんとかならないと思うか。気分によってどちらにも感じるかもしれない。
その大きな息継ぎは全曲を通して一貫して保たれている。それが音楽の流れをぶつ切りにしていると感じる反面、それが節々のアクセントとして有効であるようにも思えなくもないところが、この演奏の懐の深さなのかもしれない。
とはいえ、大仰な歌いぶりはいかにも時代がかったものと言わざるを得ない歴史的なものであり、こういう演奏を現在に行ったら、ヒクな。
シューベルトの歌曲集においては、男声と女声とで微妙な住みわけがあるようだ。「冬の旅」については比較的女声の演奏が多いものの、「水車小屋」においては女声の演奏は明らかに少ない。後者のほうが、より性を前面に押し出した音楽であるからかも知れない。この音楽からはあからさまな、はちきれんばかりの欲情を感じるわけだ。それが女声歌手にとってはやりにくいのでは。
でもロッテ・レーマンは真正面からこの曲に挑んでいる。恣意的なテンポの変化が大きく、息継ぎの大きさがかえって抑揚の膨らみに貢献しているみたい。
少年ののっぴきならない恋の悩み、ジンセイの問題を、この大歌手はおおらかな歌で受けとめてくれる。
1942年6月の録音。
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