ブラームス 交響曲第2番 カラヤン指揮ベルリン・フィル宮下誠の「カラヤンがクラシックを殺した」を読む。
こういう過激な題名で新書を出している以上、どんな新しいカラヤン批判が飛び出すのか期待したがハズレであった。じつに月並みである。それは、カラヤンの演奏評に如実にあらわれている。
まずは常套手段である、カラヤンのドイツもの批判。
「カラヤンとモーツァルトは水と油である」。
「カラヤンとベートーヴェン、これは一つの、全く質の悪い冗談にしか私には思われない」。
「カラヤンにブルックナーの演奏は本来的に不可能なのだ」。
それからブラームスについては、「第二番の微笑みを伴った田園賛歌、第三番のパセティックな「世界苦」の発露にカラヤンはもうついてゆけない」ということらしい。
その反面、プッチーニやR・シュトラウスのオペラ、そして「通俗名曲」についてはあられもない大絶賛である。
「その解釈は新しくも啓発的でも絶望的でもないが、カール・ベームの生真面目なシュトラウス理解よりははるかにスリリングだ」。
「プッチーニの音楽ほどカラヤンの音楽美学に相応しいものはないかもしれない」。
「率直に言って大指揮者ともあろうものが通俗名曲にかまけている暇はない、と思うのが当然の判断と思うが、カラヤンは大衆の趣味嗜好に合わせて、定評のある、しかしすでに手垢のついた陳腐な「名曲」をクリーニングし、ヴィーン・フィルハーモニーやベルリン・フィルハーモニーという極上のオーケストラをキリキリと締め上げて、最良の演奏を提供した」。
ツッコミどころが満載すぎて、笑うしかない。ごく控えめに言っても、この本には新しい着眼点がまったくない。
ようするに、著者が印象批評と批判する音楽評論家が昔から唱えていることと同じことを述べているのだが、それならばまだよい。気に食わないのは、自分の好みを超越しようとして軽薄な理論武装を開陳して、世界情勢までを巻き込もうとしているところだ。クラシック音楽ファンをなめているように思える。
とはいえ、特にカラヤン・ファンというわけではない。同世代の指揮者では、ショルティやジュリーニ、クーべリックのほうが好きだ。
カラヤンはよく聴く指揮者のひとりであるけれど。
このブラームスの2番はいい。すみずみまで磨き抜かれている。重厚に光る弦楽器とつややかな木管のかけあいが見事。個々の技量はとても高いし、アンサンブルの緊密なところは、この曲の演奏のなかでもそうとう上位にくるのではないかと思う。
低弦の重心が厚いところはこのコンビの特徴であるが、冬の日向のような牧歌的な明るさもじゅうぶんに備えている。ことに、1,3楽章は軽やかといってもいいくらい。フルート、クラリネットなど木管楽器のソロが素晴らしい。
終楽章の、特に金管の音がやや硬いように聴こえるのは録音のせいかもしれない。もうすこし柔らかい音であるならば、少し印象が違ったかも。
80年代前半のグラモフォンはデジタルに移行したばかりの頃で、カラヤンに限らずやや潤いの欠けた仕上がりになっていることが多かったと思う。このころは特にカラヤンの録音が多かったから、そんなイメージが晩年のカラヤンに纏う。
1983年2月、ベルリン・フィルハーモニーでの録音。
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題名が過激なので期待していたのですが、新しい発見はなかったです。カラヤンの引き合いに出している指揮者、クレンペラーはともかく、ケーゲルがいたのに少し不安な気がしていました。あとがきにもあるように、許光俊のお友達なのですね。
この著者が亡くなったこと、知りませんでした。残念です。