オランダ管楽アンサンブルのベートーヴェン坂口安吾の「続堕落論」を読む。
「堕落論」の続編は、のっけから過激な話で一気呵成に進む。ことに農村文化への批判は大きな物議を醸したのではないかな。
そんななかで、印象的なのは後半。「個」の世界への関わりかたを端的に書いている部分だ。
「個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。文学は常に制度の、また、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである」。
ここで言わんとするところは、戦中、爆撃にびくびくしながらもけっこう楽しい生活を送っていた日本人に対するオマージュ、坂口の強烈な愛国心なのじゃないかと想像する。
ピアノと管楽の五重奏曲。
1796年から翌年にかけて作曲されたといわれるこの曲は、モーツァルトが作曲した同じ編成の音楽をモデルにしたらしい。
前例のないところから、こういう楽器編成で音楽を作るとするならばそれは冒険じゃないか、そんな気がする。シューベルトの八重奏曲もたしか前例をヒントに作ったのじゃなかったかな。
それに関連して、つねづね思っていたこと。作曲家がこうした編成の曲を書くとすれば、メロディーが浮かんだときに、たまたま特定の楽器に適っていたから当該の編成になった、それが普通の流れなのじゃないか。つまり、楽器にかなったメロディーが浮かんだときはいいとして、編成を指定されて委嘱されたときには、なかなかいろいろな楽器に合った旋律が思い浮かべるのは難しいのではないだろうか。
この曲でいえば、弦楽器で鳴らせるのが適切であろう旋律はあえて使わないだろう。シンフォニーや弦楽四重奏曲とは、違うメロディーや構成で勝負しなければならないはずだから。
でも、結果的に、みごとに他の楽器では替え難い音楽になっており、予定調和的な音楽になっている。このメロディーはオーボエに替え難い、ホルンの低音は必ず必要だ、なんていう具合に。
シンフォニーや四重奏曲を作るときとは、脳の違う部分を使っているのだろうか。全ての楽器を弾けるわけではないのに。この切り替えの妙。想像力のなせる技なのだろう。この曲に関して、これ以外の編成で代替することは想像しにくい。
ベートーヴェンやモーツァルトは平気でそういうことをやっているが、考えてみるとちょっと不思議だ。
いまさらだけど。
オランダ管楽アンサンブルの演奏は、気負いがなく、軽やかにして涼しげ。
クララ・ヴュルツ(Pf)
ハンス・マイアー(Ob)
ヘンク・デ・グラーフ(Cl)
マルチン・ファン・デ・メルヴェ(Hr)
ペーター・ガースターランド(Bs)
1997年1月、オランダでの録音。
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