榎本博明の「『すみません』の国」を読む。
「なぜ日本語はぼかした言い方が多いのか。なぜ日本人は何ごともはっきり言わずに、曖昧な言い方をするのか。それは、自分の中の相矛盾した思いに気づいており、論理一貫性のもつ強引さを快く思わない感受性をもっているからではないか。」
これは至言だと思う。
なるほど、欧米人のスピーチは立派らしい。オバマにせよ、キャメロンにせよ、あるいはトランプ、クリントン。
でも彼らの話す内容は、情けなかったり打算的な自分を思いっきり棚上げして、「あるべき」という義務や「こうありたい」という理想を、思いっきり盛り込んでいるのである。それがタテマエであることは自分も聴き手もわかっている。確信犯である。
日本人のぼんやりとした考えやあいまいな言葉の妙味は、それが本音だからだと著者は言っている。
納得。
マーツァル指揮チェコ・フィルの演奏で、マーラーの交響曲1番「巨人」を聴く。
人生で初めて外国のオーケストラを聴いたのは、ノイマン指揮チェコ・フィル。ただし、演奏会ではなくてリハーサル。抽選で当たったのだ。中学2年生のとき。
そのときの演目がマーラーの「巨人」だった。ほんのさわりしか聴くことはできなかったけれど、ホルンを中心とした濃厚でコクのある音に圧倒されたものだ。在京のオケとは世界が違うと思った。
その次にこのオーケストラを聴いたのは、だいぶ後年になってから、台北の国立音楽廟でである。指揮者はマーツァルだった。
この演奏からは、さすがにリハーサルを聴いたときのような新鮮な驚きは感じない。チェコ・フィルの音質は昔と少し変ったように感じる。ウイーンやベルリンやライプツィヒなどといったオーケストラが、良くも悪くも近代的になったのと同じように。
でも演奏そのものは悪くない。1,2楽章はいまひとつエンジンがかかっていないように思えるが、3楽章の途中からギアが変わり、集中力が増していく。ティンパニとハープのリズムで主題が回帰されるあたりから、じわじわと熱を帯びてくる。
終楽章は、激しい箇所における弦楽器と金管、グランカッサが雄弁で迫力満点。響きがずっしりと厚い。中間部はしっとりとした肌触りが心地よいし、ニュアンスも繊細。
最後の2つの和音にわずかな間を置くのは、チェコ・フィルの伝統だろうか。
2008年1月、プラハ、「芸術家の家」ドヴォルザーク・ホールでの録音。
春。
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