アルトゥール・ルービンシュタイン/ベートーヴェン「ピアノソナタ集」ブログ仲間の方から、「プロジェクトX『リヒテルの愛した執念のピアノ』」を貸して頂いた。この映像を求めて数年、どこへいっても空回りだったが、あることがきっかけでようやく観ることができた。ありがたいことである。
舞台は、1960年代。主人公はヤマハの技術者。スタインウェイのように1流のソリストに弾いてもらえるようなピアノを作るべく、職人や調律師が、ヨーロッパに滞在して現地で使われるピアノの調律を試みたり、日本の伝統工芸にヒントを得て木材を組み立てようとしたり試行錯誤を繰り返し、ついに20世紀最大のピアニストのひとりであるリヒテルに認められる、というもの。
圧巻はラスト。リヒテルが日本の技術者に敬意を表して、ヤマハの浜松工場に赴き、リサイタルを開くというくだりである。シューマンの「幻想小曲集」を始めとして2時間半に渡って演奏を繰り広げたとのことだが、そりゃ工員は泣くわな。
通常のコンサートではお目にかかることはできないであろう、命をかけたプロとプロの出会いは、はたから見れば羨ましい光景である。
おそまきながら、リヒテルとヤマハの工員に乾杯である。
で、今日はリヒテルではなくルービンシュタイン。リヒテルを聴くのはなんだかもったいないような気分になった。変な言い方ではあるが、なんだかそんな感じ。
ベートーヴェンの第14番ソナタは、1801年、作曲者が30歳のときの作品。ベートーヴェンの弟子で恋人でもあった伯爵令嬢ジュリエッタ・グィチャルディに捧げるために作曲された、とされる。
ちなみに「月光」という副題は作曲家がつけたものではなく、後年に詩人のレルシュタープが第1楽章を評して「ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と言ったことによることは有名。このレルシュタープはシューベルトの「白鳥の歌」の前半の歌詞を作ったヒトである。
さて、悪評高いルービンシュタインのベートーヴェン。
とはいえ悪評は私が勝手に立てているのであって、世間的にはどうかしらない。ただ、ベートーヴェン弾きとしてルービンシュタインの名前はおそらくトップにあがることはないだろう。
ルービンシュタインとホロヴィッツは戦前のアメリカを賑わした天才ソリストであるが、ベートーヴェンはどうもいただけないようである。いわゆる三大ソナタはどちらも録音しているが、後期のソナタとなると、ほとんどない状態である。ショーピース的技巧的作品を好んだこの2人があえてそういう分野にいかないことは、素人ながら理解できなくはない。
彼らは自分のスタイルをわきまえているだけのことである。
私はベートーヴェンのピアノ・ソナタを好きだが、その反面、スカルラッティのソナタやショパンのマズルカも好きである。ベートーヴェンとショパンとに優劣はなくて、それぞれが素晴らしい。ベートーヴェン弾きが偉くてショパン弾きが劣るということはありえない。
で、ルービンシュタインの「月光」はどうかというと、どうもあまりピンとこないのである。
音は澄んでいて綺麗だし、組み立ても流麗に聴こえるのだが、何かが足りないような気がするのだ。こういう問題が、ベートーヴェンにはよくあることだ。何かとは何じゃといえば、それは、まあベートーヴェン・マインドなのだろう。では、これはいったいどのようなものか? 言葉では表しにくいが、そういうものがあるとしか言いようがないのである。技術があれば弾けるわけではない、独特の精神性とでもいうようなものが演奏に必要なのではないかと思うのだ。
ただ、それを持っていたとしても、ショパンをうまく弾けるとは限らないわけだ。これはあくまでベートーヴェン・マインドだから。そこが面白いというか、難しいというか。★音楽blogランキング!★にほんブログ村 クラシックブログ無料メルマガ『究極の娯楽 -古典音楽の毒と薬-』 読者登録フォーム
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確かに、コンチェルトはバレンボイムとの全集もありますね。あの演奏は(といっても5番しか聴いていませんが)良かったです。華麗でスケールの大きい立派な音楽でありました。
この記事を書いているときには、全然思い浮かびませんでした…。ピアノ・ソロと比べて協奏曲となると、何故か作曲家の色が薄くなるような気がするのです。