スビャトスラフ・リヒテル/ベートーヴェン「ピアノソナタ№3、№29」他ひろさちやの『「狂い」のすすめ』(集英社新書)を読み始めた。なるほどと思った箇所がある。
「わたし自身が”人生の危機”といった言葉で、病気をしたり、会社を首になったり、大学受験に失敗したり、破産をするといったようなことを考えたのです。たぶん、ほとんどの人がそう考えるでしょう。でも、それらは「生活の危機」であって「人生の危機」ではありません」
なるほど。生活の基盤となるのは収入であるが、それを脅かされることは人生の危機ではなく、あくまで生活の危機であるのか。まあ、ちょっとした言葉遊びではあるけれどもうなづける。これによれば、大人の危機というものは、ほとんど全てが生活の危機になるのだろう。それにくらべると、若い頃の困難というものは、もっと人生の危機たりえるものではないか。
私個人のことで言えば、学生のころは小遣いはアルバイトで賄っていたものの、生活費や学費は親から受けていたものだった。だから、仮に仕事はなくなったとしても生活に困ることはなかった。
でもそれなりにいろいろと悩んでいたものだ。将来のこととか、人生とは何かとか、たまには恋愛のこととか。その悩みの中には、全く解決の糸口がつかめないものもあって、非常に困り果てたことがあった。
それを回避してもしなくても、生活にはなんら関係のないものであって、まあ若い頃特有の観念的な悩みだったというしかないが、当時としては切実だったわけだ。
それに比べ、今の悩みというものは、たいがいは金銭で解決できるものばかりである。中にはそうでないものもまれにあるが、それは実にレアケースである。そういった意味で言えば、若い頃の悩みのほうが(今考えればどうということもないとはいえるのだが)切実だったのではないか、という気もする。
金銭でカタがつくとはいっても、金銭を稼ぐというのは大変なことなのであるけれども。でも一口に言えば稼げばいいのだ、ということに落ち着いてしまうのだ。これが大人の最大の悩みであろうか。寂しくもある。
さて、マンスリー企画も、本日で一旦終了。相手がベト様なので、今後もたびたび登場することになるだろう。ベートーヴェンの29番のソナタは1818年に完成された。作曲者が48歳の時。決して晩年の作品ではないのである。なんだか意外。
この曲とは学生時代からの付き合い。長い間楽しませてもらっているし、時には人生の苦境において励ましてもらってもいる。
いうまでもなく、空前の規模と高度な技術を要する作品であり、今でもその難しさはトップクラスだろう。
CDでは、グルダ(新盤)、ゼルキン、ブレンデル(新盤)を気に入っているが、このリヒテル盤はその一画に食い込む名演だと思う。
リヒテルのこの演奏は、1975年のライヴ。
第1楽章は、真正面からのがっぷり四つ相撲。どこから押しても揺るぎない音の建築物。技術も胆力も申し分なく、横綱相撲を繰り広げる。
第2楽章でリヒテルは変化を見せる。明るい色の点描画とも言えるこのややコミカルで幻想的な曲に対し、テンポを揺らしたり、長いルフト・パウゼを用いたりして、この曲に今まで見出すことのできなかった多様な世界をつきつけられる。奥行きが深い曲であることを認識させられた。
続く第3楽章では、中くらいのゆっくりさ。このテンポがいい。グルダの新盤では速いテンポでこの曲を駆け巡り、結果的にがっちりと均整のとれた端正な味わいを出すことに成功しているが、ここでのリヒテルはそれよりもやや遅いテンポを基調として(遅すぎないところがポイント)、重厚で深く思索的な世界を醸し出している。
アタッカで終楽章が始まる。まず序奏の緩急の対比が凄い。たっぷりとした重量感ある冒頭と、突然の雷雨のような激しい速さのパッセージ。音の粒立ちは宝石のように輝いており、なおかつたたみかけるスピード感に背筋が震える。リヒテル渾身のピアノである。
そしてフーガ。インテンポでたたみかけてゆくが、複雑に入り組んだ音の綾のひとつひとつがはっきりを見えるように明快である。そう、リヒテルのピアノというのは明快なのである。一部の粗悪な録音によってその良さを伝えられていないCDもあるが、ここでは彼の柔らかく芯の通った音色を掬い上げることに成功している。
ライヴとは思えないような、完成度の高い演奏である。このようなリサイタルに立ち会えたら、どんなにスリリングなことだろう。このCDについての記事:bitokuさんのBLOG無料メルマガ『究極の娯楽 -古典音楽の毒と薬-』 読者登録フォーム
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