吉田健一の「銀座界隈」を読む。
「前に銀座はめまぐるしいと書いたが、めまぐるしかったり、騒々しかったりするのが都市というものの魅力だと思ったら大間違いで、都市の中心部にした所でこのことに変わりはない。」
都市の慌ただしさに気を取られるのは田舎ものであり、都市のよさは田舎にはない静寂にある、と筆者は云う。
山奥にいれば雷が鳴るし、海辺では海の音が大きい、自動車の音にくらべれば余程騒がしい。銀座に電車は走っていてこれは少々うるさいけれども(当時の都電)、いずれ廃止になる、よって「銀座の第一印象は静かな場所だということである」と決めつけ、蕎麦屋で酒を呑んでいる。
風の音や海の音、雷は自然がなすものである。そういう意味では赤ん坊の泣き声もそれに入るかもしれない。そういう音は、気にならないものなのではないだろうか。自然は人間よりも先にあるものだし、勝てっこない。諦めもつく。
それに比べ、自動車やバイクの喧噪、あるいは喫茶店で大きな声でしゃべる携帯電話などは人工のものであり、都電と同様に、技術革新が起こったら、なくなってもおかしくないモノだ。自動車の音がうるさくないわけはない。
おかしなことを云う人である。
ミケランジェリのピアノ、チェリビダッケ指揮フランス国立放送管弦楽団の演奏で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番「皇帝」を聴く。
(1974年10月、パリ、シャンゼリゼ劇場でのライヴ録音)。
ミケランジェリとチェリビダッケの組み合わせの「皇帝」は、昔レコードで聴いた。そのときのオーケストラはパリ管弦楽団だったから、この音源とは異なる。あれは、DGの一連の録音で知っていた、冷徹なミケランジェリではなく、猛烈なパッションでもって激しく推進するピアノだったと記憶する。昔のことなので、あいまいであるが。
当録音は、ライヴならではの臨場感はありつつ、ミケランジェリの水晶を思わせるひんやりとしたピアニズムも聴くことができる。
剛直にして繊細、輝かしく、力強い。思わせぶりなタッチはなく、すべてど真ん中ストレート、迷いなし。全曲を通して、テクニックは完璧、綻びの予兆すらない。
チェリビダッケのオーケストラはスピード感があり、すみずみまで躍動している。ホルンのヴィブラートが、おいしい。
タイムは、38分10秒(拍手込み)。録音もいい。
ミケランジェリは、この何年かあとにジュリーニと皇帝を演奏しており、それもディスクになっているが、当録音は力強さと溢れんばかりの情熱の迸りにおいて、それを凌駕するように思う。
春。
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