ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィル永井龍男の「一個」を読む。
定年退職をまじかに控えた初老の男が、つてを頼りに職探しに奔走するが、十数通の紹介状はみんな空振りに終わっている。そんなとき、家に帰る電車のなかで、ある光景を目にする。若い男に抱きかかえられた嬰児が、白い吊革をつかもうとして一所懸命に手を伸ばしている。そうともしらない若い男は、嬰児の体重をもてあまして、何度か抱きなおすものだから、嬰児の手はなかなか手に届かない。みんなが白い吊革を欲しがっている。天使のような顔をした嬰児まで。電車のなかで男の妄想が渦を巻く。
電報で、嫁いだ娘が危篤になったことを知った夜、男は自害する。
今では新聞沙汰にもならない、つまらない話かもしれない。けれど、男のわけのわからない妄想が、生きていくことへの情念となって迫る。人生は必ず固有のものだ。生への執着がなまなましく描いていて、重い印象が残る。
カラヤンとベルリン・フィルのコンビによる、これはピッカピカの演奏。この組み合わせでは、アンサンブルの精度の点からいえば、60年代くらいがいいという人がいるようだ。この録音は80年代、カラヤンの晩年に近い頃である。合奏は若干荒いところはあるものの、響きの豪奢さにおいては、他の追随を許さないのではなのじゃないだろうか。赤ワインとバターをふんだんに使った濃厚なソースの味わい。
彼らは、モーツァルトだからといって、軽い演奏はしない。冒頭からこれでもかというくらいに分厚い、見事なフルボディ。ブラームスのシンフォニーをやるときと同じ人数でやっているんじゃないか、なんて思うくらい。「セレナータ・ノットゥルナ」といえば、モーツァルトのセレナードの中でも比較的小ぶりな曲なわけだが、カラヤンは曲に迎合しないから、容赦なくオレ流を炸裂させる。姿勢にブレがないんだね。そういう意味で、じつに気持ちのいい演奏。
1983年9月、ベルリン・フィルハーモニーでの録音。
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