北川恵海の「ちょっと今から仕事やめてくる」を読む。
これは昔ながらのお話を、今風にモディファイした小説。例えるならば、ディケンズあるいはO・ヘンリの短編にありそうな感じ。
主人公は、中堅の印刷会社で営業として奮闘する新人社員。就職氷河期になんとかもぐりこんだ会社だが、毎日のように上司に叱責され精神的にボロボロ。土曜日も出勤するが契約はとれない。ある日、駅のホームで意識を失い、線路に落ちようとするところを助けられる。その男は、小学校のときの同級生だというが、まったく覚えていない。彼との不思議な親交が始まる。
ラストはドンデン返しというほどのものではないが、心温まる。世にはびこる毒にも薬にもならないビジネス本を読むよりは、ずっといい。
ケンプのピアノで、シューベルトのピアノ・ソナタ21番を聴く。
ケンプのベートーヴェンを始めとするステレオ録音は、テクニックにガタがきているように感じるので、普段はあまり好んで聴かない。このシューベルトはブログ仲間が推薦していたので、以前から気にしていた。
この演奏も技術は万全、とまではいかない。トリルが明瞭ではない。が、この演奏はそれを補って余りある魅力が、恐ろしく豊富につまっている。シューベルトの瑞々しさと哀感をこれほどまでに率直にあらわしたピアノがあったとは。
1楽章は比較的ゆっくり目のテンポ。ひとつひとつの音を慈しむかのように弾いている。音色の吟味よりも、ニュアンスのつけかたに重きを置いたピアノであるように感じる。シューベルトの孤独に思いを馳せずにはいられない。
2楽章はこの演奏の白眉。この楽章の第2主題は、シューベルトが作ったメロディーのなかで最も崇高なもののひとつであると思う。これほどの威容を紡ぎあげた30歳の若者はなにものだったのか。
ケンプの重厚な弾き方はこの曲にふさわしい。感涙した。
3楽章はやや速め。前の楽章とのコントラストが鮮明。アクセントを軽やかについて爽快。秋のそよ風のように過ぎ去る。
終楽章も快速。作曲家の、ひとときの安息といった感じ。ささやかな幸福感に満ちている。
1967年1月、ハノーファーでの録音。
家族連れ。
重版できました。
「ぶらあぼ」4月号に掲載されました!PR