雨がぱらついたりやんだり落ち着かない晩秋、紀尾井ホールへ赴く。
ブラームス 3つの間奏曲作品117
シューマン フモレスク
シューベルト ピアノ・ソナタ20番
ブラームスの間奏曲とシューベルトの20番は大好物。そして弾き手はドイツの正統派であるレーゼルなので期待しないわけにはいかないが、果たしてよかった。まず、ブラームスから。
レーゼルの音色を一言であらわすと、硬くて軽い。そして、臨機応変に変化球で味付けする。その按配が絶妙なのである。
間奏曲は、ブラームスが晩年に作ったピアノ・ピースのひとつである。疲れた背中に漂う濃い哀愁が魅力な曲なわけであるが、レーゼルは軽やかに調理する。1曲目は、あたかもエンジンの暖め時間といった感じであったが、2曲目からは情感がより深くなっていく。
2曲目は、まさに夜の音楽ともいうべきで、これほど深い夜の帳をあらわした音楽は、他にそうそうない。しかしレーゼルは、淡々と、端正と言っていいほどあっさりと弾いてのける。ここには、ブラームスの若い頃の迸りがあった。
さらに面白かったのは、次のシューマン。この曲は、シューマンの組曲としては、いささか単調ではないかというイメージを持っていた。レーゼルのピアノで聴くと、それは、まるで百花繚乱のよう。あるときは幻想味豊かな鎮静したシーンであったり、あるときは華やかな舞踏会を思わせる艶やかさであったり。
下手なピアノで聴くと、もったりとして冴えない曲であるのだが、ここでは硬軟織り交ぜた確かな技巧でもって、鮮やかにシューマンの音世界を明確に提示してくれた。あいまいさや仄めかしはここでは薄い。シューマンが材料であっても、技術が大事なんだよということをピアニストは教えてくれた。名演なり。
休憩を挟んでのシューベルトは、異世界。
この曲があれば、炙ったイカがなくても朝まで飲めるクチである。
1楽章における反復の多さは、シューベルトを聴く醍醐味であるから、ここで大きく言うことはないだろう。
2楽章は、ディスクで鑑賞するぶんには、やや重いな、という程度でさほど重要視していなかった。でも、こうして生できくとどうだろう。
シューベルトは21曲のピアノ・ソナタを完成させたが、生前に発表されたのはわずか3曲にすぎない。だから、シューベルトは、ただ自分の楽しみにソナタを書き続けた。その典型が、この2楽章である。決して、お茶の間では聴いてはいけない。そっと忍ばせて、墓場まで持ちかえらなければならない類の音楽である。
トリッキーな3楽章は、軽やかに通り過ぎる。
終楽章は、言うまでもなく4番ソナタの焼き直しである。だが、終盤にかかると、ピアニストは、大きな休止を何度もとり、音楽全体を揺さぶらせる。シューベルトの晩年の心境など凡人にはわかり兼ねるが、レーゼルは、その一端を垣間見せてくれた。
フォルテッシモでも音が濁らない。速いパッセージを難なく弾きのける。これは、第1級のピアニストの証であって、なかなかできることではない。
左手と右手が醸し出す音が明瞭に分離されて聴こえてくるのはもちろんのこと、そのなかでミルフィーユのようにいくつもの種類の音が重層的に連なっていくさまは、大変なごちそうであった。
アンコールは、シューベルト即興曲90-3、ブラームスのワルツ15番、シューマンのトロイメライ。なくてもよかったが、あればご馳走になる。
2014年11月8日、紀尾井ホールにて。
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