ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 クライバーン(Pf) ライナー指揮シカゴ交響楽団内田樹の「下流志向」。内容は大きく二つに分けられる。近頃の子どもはなぜ勉強しないかということ、もうひとつは、若者が働かずにニートに走ることについての考察である。ことに後者について興味があって、私は若者ではなくニートでもないが、内田が労働をどう考えているのか気になった。
それにしても、つくづく労働は苦痛であると感じる。なぜ苦痛かというと労働は自己研鑽だからである、と思っている。
万が一に宝くじがあたったら当然のように働かなくなるのじゃないかと思うが、それと同時に今よりもだめな人間になるだろうとも薄々想像できるのだ。だから、ふんだんに金があったとしても、もしかすると実は働き続けているのじゃないかとも夢想するのだ。
とはいえ、根が怠け者なのでどうだかわからない。しかも宝くじ買わないし。
ところで、内田はなぜ労働は苦しいものかということに対するひとつの要因をあげている。
「労働というものは本質的にオーバーアチーブなのです。言い換えると、人間は常に自分が必要とするより多くのものを作り出してしまう。その余計に作り出した部分は、いわば個人から共同体への『贈り物』なのです」
その「贈り物」とは、直接には会社の利潤や設備投資であるし、広く言えば社会保険や生命保険といった仕組みということと理解した。
実際の働き量を超える部分が相互扶助ということで、まさに憲法で謳っている「勤労の義務」のキモである。
ただ、理屈ではわかっても労働のキツさは変わらないな。
連休はLP三昧。
本日はカミさんが実家、息子は部活に出かけているのでひとりやりたい放題だ。ちょっとだけ勉強し、あとは読書と音楽。こういうときでないとやりたい放題できないところに悲しいものがある。
で、おもむろに取り出したのがラフマニノフ。クライバーンを聴くのは久々。
なつかしの見開きジャケットである。クライバーンの幼児期からの写真やチャイコフスキー・コンクール優勝時のエピソードがふんだんに盛り込まれている。
これによるとクライバーンは1935年生まれなので、アシュケナージとほぼ同世代ということになる。私がクラシック音楽を聴き始めた頃にはもうほとんど目立った活動をしていなかったので、比較的若い頃にプチ・リタイアしたわけだ。アシュケナージくらいのキャリアを平均的といってはいけないのだろうけど、クライバーンは短かかった。酷使したのか、されたのか。
この演奏を聴くと、あたりまえだけど後年の不運は感じられない。ブーニンのデビュー時を思い出すような、打鍵の激しい演奏である。ことに高音が強く、輝かしい音色を惜しげもなく撒き散らしている。ときどき響きに濁りがあるものの、拘泥せず余りある勢いで押し込んでいる、といった感じ。
録音のせいか、オーケストラが後ろに引っ込んでいる。常にピアノが全面にたっているので、多少不自然な感じはあるが、逆よりはいいだろう。
ライナーとシカゴの演奏は、2楽章における弱音器を用いた弦の響きが秀逸。氷のように冷え冷えとしていて凄みがある。
1962年3月31日-4月2日の録音。
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