小林秀雄(宴会?ではなさそう)小生は、オペラをあまり聴かない。
とくにイタリアものはさっぱりだ。
ヴェルディやプッチーニのいくつかは聴いたことがあるが、
ベルリーニ、ドニゼッティあたりは、全曲を聴いたことがないと
自信をもって断言できちゃうのだ。
それは、老後の楽しみにとってあるからである。
というのは冗談で、今のジンセイのペースでゆくと、彼らの
オペラを一生聴くことはないかも知れない。
先のことはわからないが。
それにくらべれば、ドイツ物は比較的聴いているほう。
ワーグナーの主要作は、ほぼ聴いた。
毎年末にバイロイト音楽祭を放送しているのが大きい。
R・シュトラウスは、ほとんどアウト。
いつだったか、カラヤンの「薔薇の騎士」をヴィデオに録ったが、
放置状態である。
モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と「魔笛」は好きだ。
「コシ・ファン・トゥッテ」のCDはクイケン指揮のものを数年前
に聴いたが、途中でなにか用事を始めてしまって挫折。
以来、棚に眠りっぱなしである。
「フィガロの結婚」は、昔、E・クライバーのLP盤を買った
のだが、裏返したり取り替えたり歌詞対訳読んだりとあまりに
忙しい(?!)ので、たまに、部分的にしか聴いていなかったはずだ。
これは実家のどこかに埋もれてしまっている。
いろいろな著作に記載されている「フィガロの結婚」についての
高評価は、「オペラ」というくくりを超越して、「モーツァルト」
あるいは「クラシック音楽」に対しての評価であるように感じるのだ。
そういうこともあって、「フィガロ」を楽しく聴くようにならねば
いかんと、なかば意地になっている次第である。
「フィガロ」についての本を漁っていたら、こういう文をみつけた。
「彼の歌劇は器楽的である。さらに言えば、彼の音楽は、声帯による
振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。
彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話するように、『フィガロ』
のスザンナが演技しない時には、ヴァイオリンが代わりに歌うのである」
※小林秀雄「モオツァルト」より
歌詞を音楽の抑揚のひとつとしてとらえる、ということか。
小生もドイツ・リートを聴くときの多くは、そうしている。
このような理屈であれば歌詞はさして重要でない、というようにも
読み取れる。
こういうものもある。
「音楽好きの方の中にも、『フィガロ』では、歌だけでなく、
レチタティーヴォも大体何をいっているところか見当のつく方が
少なくない段階まできたろう。そこを、もう一歩進めて、
レチタティーヴォのイタリア語の、少なくとも、その中の要所要所で
かなめとなる単語を、意味としてではなくて、音としてきいて、
ピンと来るところまで、ゆくことはできない相談だろうか。
めんどう臭いかも知れないが、ちょっとやってみたらどうだろう。
そうすると、このオペラのおもしろ味は、少なくとも十倍になる」
※吉田秀和「この1枚」より
吉田秀和小林説を噛み砕いた言い方ともいえる。
なるほど。
必ずしもイタリア語をわかる必要はないが、要は「フィガロ」を
聴き込みなされ、ということと理解した。
というわけで、CDに挑戦。
まずは、ハイライト版。
歌手は、ファン・ダム、ポップ、ライモンディ、バルツァなど。
マリナー指揮アカデミー・オブ・ST・マーティン・イン・ザ・フィールズ。
メンバーに不足はない。
しかし、この楽団名、誰かうまく翻訳してくれないものか?
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