マーラー:交響曲第10番 インバル指揮フランクフルト放送響池田清彦の「人はダマシ・ダマサレで生きる」を読む。
気鋭の生物学者である池田が、環境問題や政治などについて熱く語る。どれも一見過激だがまっとうな意見。
そのなかで教育について語ったところを引用する。
「答えがある問題は、コンピュータにやらせておけばいいのであって、人間がやる必要はない。いざとなったときにどうしたらいいか問題になるのは、必ず前例がないケースなのだ。そういう困難な問題が発生したとき、的確に判断する能力は、ペーパーテストの能力とパラレルにならない」。
長い人間の歴史のなかで前例のない問題というのはもう少ないかもしれない。ただ人間はすべてユニークであるのでそれぞれ個別に対応をしなければならない。それを考える作業は当人にとってはいつも前例がないわけだ。
この著者の多くの本のなかで、これはよく練られた本だと思う。最後は切れ味鋭いオチで締めくくられる。
インバルは平均点の高い演奏家だ。「こりゃないよな」なんてハズレはほとんどない。いつも丁寧でまっとうであり、真面目さが演奏ににじみ出ている。ただその反面、ホームランも少ないようだ。
インバルここにありということを世に知らしめたブルックナー以降、ヒットは多いものの大ホームランは見当たらない。
マーラーの交響曲はどれもなかなかのものであるが、腰が抜けるほどではない。いい味を出している指揮者なのにどうしてだろう。
その責任の多くは、デノンの録音にあるように思う。弱い音から強烈な音まで歪みなく、すみずみまで透明なものであり、悪いとはいえない。でも、音色は総じて極めてメタリックで立体感や柔軟性に欠けるため、実際の演奏の風味を殺している。一言でいえば、雰囲気に乏しい。
インバルのマーラーのベストは、以前FMで聴いたオーストリア放送饗との「夜の歌」だと思う。録音はヨーロッパの放送局特有の、残響豊かなざっくりとしたものだが、それが会場の臨場感をうまく伝えているのだった。
これを聴いたときはたまげた。インバルのマーラーがこんなにスゴイものだったとは。
それに比べるとデノンの録音は、オーストリア放送局のものよりも音を鮮明に捉えることに成功しているものの、リアルさに欠けている。平板なのだ。
そういう意味で、ディスクにおいてインバルはかなり損をしているのではないだろうか。マーラーの交響曲しかり、ベルリオーズしかり。
この10番も録音の傾向は同じである。これがデッカやフィリップスだったらと夢想する。
ただ、演奏はかなりのものだ。10番という曲は、なかの3楽章はちょっともの足りない感があるものの、両端楽章のボルテージの高さはマーラーのなかでも屈指のもの。全体的にレベルの高いインバルのマーラー演奏のなかでも、緊張感の高さと精密さにおいて最高クラスに位置するのじゃないかと思う。
1992年1月15~17日、フランクフルト、アルテ・オパーでの録音。
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