ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ バシュメット(Va) リヒテル(Pf)成毛眞の「本は10冊同時に読め!」を読む。
日本マイクロソフトの元社長は文藝春秋の書評を担当しているらしい。大変な読書家であるとのこと。社長とか元社長とかいった人達の書いた本には、しばしば上から目線の説教を垂れる類のものがあるが、この本は幸か不幸かその例に漏れない。
「一流の経営者は、みんなすごい量の本を読んでいる」とか「本を読まない人間はサルである」など過激なことを言い放ったりして、各論に全面的に賛成というわけにはいかないけれど、最後まで読ませる妙な魅力がある。論理的では全然ないものの熱いものが迸っている。
経営者の資質には、読書うんぬんよりも勢いが大事なのだということを教えてくれる。
ヴィオラ奏者でまず一番に思いつくのはバシュメットだ。音はたっぷりとドスがきいているのに、歌い回しはいたって軽快。スケールも大きい。
ヴィオラの大家は少なくないがそのなかでイチオシなのは、実演で接した演奏をいたく気に入ったから。80年代前半に演奏したモスクワビルトゥオーソ室内管とのモーツァルトである。あれは圧巻だった。いまでも強く印象に残る。
端正かつ切れ味鋭く迫るスピヴァコフに対して、豪胆にしてこれも鋭角的なバシュメットのヴィオラ、ともに素晴らしすぎたが、個人的には軍配はバシュメット。テンポは遅いうえにやたらと縦の線を研ぎ澄ましたやや神経質なモーツァルトではあったが、実に濃厚な時間を感じたものだ。
などとギャーギャー騒いでおいて持っているCDは数枚きりだ。
そのひとつがこれ。 ショスタコの最後の作品であり、全体にどんよりと漂う寂寥感はただならない。終楽章においては「月光ソナタ」のメロディーが何度も引用されるが、これを聴くとR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を思い出さずにいられない。シュトラウスが「英雄」の葬送行進曲を引用したことについて「『これで、バッハ以来の光栄あるドイツ音楽の伝統も終わりだ』という気持ちを込めたものだ、という話である」(吉田秀和)、という話がある(ヤヤこしい)。このヴィオラ・ソナタにおいての「月光」は、さしずめ作曲者が人生に別れを告げるモチーフだったのだろうかと夢想する。
リヒテルの芯のしっかりとしたピアノに乗って、苦渋のヴィオラの響きがあたかも砂漠のように広がる。
聴いていてつらくなる音楽である。
1982年9月26日、モスクワ音楽院大ホールでのライブ録音
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