「西村賢太対話集」を読む。
これは私小説作家が芥川賞を受賞した直後になされた対談・鼎談集。
なかでは、町田康との対話と石原慎太郎との対話が印象に残った。
町田とは、語彙を主なテーマに会話する。
西村が「慊りない」という言葉をよく使うということから話が流れて、町田が作家の貴志祐介と対談したときの話になる。彼は、貴志から「そんな言葉遣いをして伝わらないことが怖くないですか」と言われたという。それを聞いた西村は驚愕し、「やっぱ純文というのは、言葉は悪いですけど、商業文芸としては緩いんですかね」と感想を漏らす。
石原は以前から西村の作品を買っていたという。石原が芥川賞を獲った「太陽の季節」も当時は問題作として話題になった。
西村「石原さんがお獲りになったとき、叩く人も多かったと思うんですが・・・」。
石原「ええ。佐藤春夫なんていい加減な爺じぃでね、谷崎潤一郎と女房取っ替えっこした奴が俺のことを「慎みがない」って言うんだ。手前が言えた柄か、って」。
石原は政治家を辞めて作家に専念すれば面白いのにと、つくづく思う。
マルケヴィチが指揮をしたベルリオーズ「ファウストの劫罰」を聴く。
期待をしていたが、これほどいいとは!
冒頭は静かに始まるが、既にエネルギーが充満している感がある。ヴェローのファウストの端正な独白で、もう勝負は決まった。
歌手陣はフランス人で固められていると思われ、鼻にかかった発音が美しい。なにをしゃべっているのかわからないが、発声そのものがひとつの楽器としての持ち味になっている。
「ハンガリー行進曲」は今まで聴いた多くの演奏のなかで、最高であると断言できる。切っ先の鋭いトランペットが響き渡り、めくるめく音響世界が繰り広げられる。金管楽器、弦楽器、シンバル、ティンパニは正確に、かつリズムよく鳴りまくり、狂気とも言うべき迫力に満ち満ちている。ピアノ版のホロヴィッツに優るとも劣らない。
メフィストフェレスの登場のシーンは、やはり切れ味がよく、高揚感がじゅうぶんでカッコいい。このメフィストフェレスは、声が高めのバリトンであることに加え声質が柔らかいから、インテリ然としている。そう、彼はインテリなのだ。
その一方で、酒場でのアーメンフーガは、本物の酔っ払いがヤケッパチで歌っているかのようだ。計算された無秩序。こんな演奏、聴いたことがない。
そのあとに続く合唱は、なんとも幻想的で自然な広がりがある。妖精のワルツでの、やや掠れたヴァイオリンの響きも計算のうちか?
2部の終わりの、学生と兵士の合唱では合唱の勢いのよさもさることながら、弦のピチカートと右からコロコロと聴こえるクラリネットの、なんと生きのいいこと。
マルガリータの登場は3部。ルビオの声は、クセのない適度な重みのあるもの。「テューレの王」のアリアはノーブルで美しい。仄かな色気を感じる。この声に抱かれて眠りたい。
そのあと、「降魔の音楽」、「鬼火のメヌエット」、「セレナード」と続く音楽の、なんと新鮮なことだろう。艶のある弦に天空を舞う木管。生まれたての元気な生命のように瑞々しい。
4部は地獄への恐怖と、皆殺しの快感が炸裂。
ファウストとメフィストフェレスの対話、そして後ろに流れるホルンの響きの異様さ。のっぴきならない緊迫。
そして地獄落ち。シンバルは暴力的な連打、合唱はまさに悪魔の咆哮。
メフィストフェレスは野太いヴァン・ダム(ショルティ盤)に比べると、理性が強いが、これはこれであり。コールアングレ、オーボエのうまさには、もう驚かない。
独唱、合唱、オケ、みな最高。
マルケヴィチに乾杯!
コンスエロ・ルビオ(マルガリータ)
リシャール・ヴェロー(ファウスト)
ミシェル・ルー(メフィストフェレス)
ピエール・モレ(ブランデール)
エリーザベト・ブラッスール合唱団
フランス国営放送児童合唱団
ラムルー管弦楽団
1959年5月、パリ、サル・ド・ラ・ミュチュアリテでの録音。
ビーチにて。
PR