ブルックナー 交響曲第8番 カラヤン指揮ウイーン・フィル先週末は発熱してダウン。ここ最近、気温の変化が大きかったとはいえ、すぐに体調を崩してしまうのはトシのせいか。
微熱が収まらず、頭が朦朧としていた。
なので日曜日は一日中寝床でゴロゴロ、寝たり目を覚ましたりの繰り返しのなかで、ひとつ収穫だったのはNHKの「サンデークラシックワイド」。流れていたのは、ヘンデルの世俗的オラトリオ「アチスとガラテア」である。
ぼけた頭で、ほんの少し期待していた音楽は素晴らしかった。
自然に湧き出るような新鮮な生命力と、澄んだ青空のような大らかさ。
こうしたすばらしい音楽はまだまだたくさんあるのだということを改めて思い知らされた。
いままで長いこと音楽を聴いているけれど、ヘンデルはほとんど聴いちゃいない。こういう隠れた(いやいや、なにも隠れちゃいない、ただの怠慢である)音楽を、あとどれくらい聴くことができるものか。そういうことを考えてしまうこのごろである。
とはいえ、知っている曲を違う演奏で聴く楽しみは、他に代えがたいものがある。
ブルックナーの8番だ。
ブルックナーは、指揮者によっておおいに違う姿をみせてくれるけれど、この8番も例外ではない。
なにしろ大作であるから、録音を実現することがひとつのフィルターであるといえる。
それはカラヤンにとっても、特別なことだったのじゃないだろうか。
カラヤンが、ベルリン・フィルと1975年に録音した演奏は、なんとも華麗でスマートな演奏であった。
メカニカルな色が強くて、流麗で都会的な、洗練されつくしたものだった。
このウイーンとのものは、彼の8番の最後の録音になる。
ベルリンとウイーンとを比べると、通常、前者は田舎臭くて後者は都会的であるという印象があるが、ここでの演奏は逆である。ウイーンとのものは、もったりしている。鈍重な感じすらうける。これはカラヤンの嗜好というよりも、ウイーン・フィルの特色が強く出ている結果じゃないかと思う。
ことに、皮の感触がするティンパニの存在感はなかなかに強烈である。全体のアクセントを決定づけているともいえる。要所に叩き込まれる重音が、通奏和音のように音楽を支えている。
そして、くすんだ金管と弦の音色。歴史の重みを感じさせるような、いい感じに色褪せた響きである。
ドレスデンとも、もちろんシカゴとも違う色合いである。この厚い響きを、カラヤンはゆっくりとしたテンポでこれでもかというくらいに鳴らせる。この響きをじゅうぶんに味あわせるためのこのテンポであるかのようだ。
演奏時間は全曲で82分だけれども、実際に聴いてみると、もっと長いように感じる。
弛緩しているからか。
これはカラヤンの枯れた姿じゃないかと思う。この指揮者は、なかなか枯れた味をみせなかったけれど、このブルックナーは、崩れる寸前のところまで熟しているように思える。
腐る寸前の果実のような、甘くて爛熟した味わいのブルックナー。
風邪っぴきには少々重いのであった。
1988年11月、ウイーンでの録音。
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