グールドが弾く モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス名越康文の「心がスーッと晴れ渡る『感覚の心理学』」を読む。
著者によれば、自我と心は別物だという。自我に対して、心は4頭立ての馬車だと例えている。
「4頭の馬それぞれに意識があり、右に行こうとする馬がいれば、左に行こうとしている馬もいる。またある馬は立ち止まろうとするし、猛然と走り出そうとする馬もいる。それが、私たちの心だということです」。
あくまで「私たち」が御者であり、心が馬なのである。目から鱗。
具体的な対処策はこうだ。対象が神であれ仏であれ、祈る。ひたすら祈る。
我流に解釈すれば、対象は神や仏でなくてもいいと思う。かあちゃんであったりとうちゃんであったり、娘であったり息子であったり、あるいは愛人でもいいだろう。「生きていてくれていてありがとう」。そう祈るのである。そうすれば、人生はもっと楽になる。4頭の馬は鎮まる。そう私は解釈している。
この1週間、近くの寺で家族のことを祈っている。その効果のほどはわからないけれど、気分の悪いものではないことはハッキリと言える。
グールドのブラームス「間奏曲」を聴く。そのなかで集中的に聴き、感銘を受けたのが作品117の3曲である。
この3曲を聴くには、夜がふさわしい。暗闇の帳が下りて、できれば家族が寝静まったあとの静寂な部屋でひとりモソモソとディスクを取りだす。
1曲目は、なにかをあきらめてふっきれたような音楽である。これが晩年の作品だということをあらかじめ知っているから言えることだが、20代の若者にこういう音楽はなかなか書けないだろう。といいつつ、弾いているのは20代の若者なのだけど。
3曲のなかでも気に入っているのは2番。日曜日の深夜の大都会の匂いがする。ちょっぴり枯れていて、かつ洗練された抒情が、グールドの鼻歌をスパイスに展開されていて素晴らしい。
3番は、ゴツゴツとした手触りの、硬派な音楽。中間部は濃厚な夜の匂い。そしてシブくてチャーミング。なんとも雰囲気がいい。この音楽があれば、つまみなしでワインを呑み続けられるだろう。
この3曲は似ているようでみな違う。そしてお互いの関連性が薄いので、3つを1つのソナタに見立てるような聴き方は難しい。それぞれが独立した三つ子のようだ。
それにしても、グールドのじっくり熟成されたブラームスは素晴らしい。
1960年9月、ニューヨーク、コロムビア30番街スタジオでの録音
PR