バッハ 「ロ短調ミサ」 ジュリーニ指揮バイエルン放送交響楽団、他木原武一の「哲学からのメッセージ」を読むと、難解なヘーゲル哲学の一端を垣間見ることができる、ような気がする。
ヘーゲルは「個人」のユートピアをこのように考えていたという。
「『自我は世界を知っているとき、世界のなかでわが家のようにくつろぐことができる』というヘーゲルの平易な言葉もいっそうよく理解できるかもしれない。要するに、客観(他人)の世界をよく知ることによって、そしてそれを通して自分自身をもよく知ることによって、人間は自己疎外から逃れることができるということである」。
「あるいは、ここで、前に述べた『絶対知』を思いおこすのもよい。『絶対知』とは、世界と自己とについて完全に知ることであるが、それが可能になれば、主観と客観との一体感は完璧となり、真に自己は満足することができるはずである」。
これを私なりに解釈してみた。ここでいう『絶対知』とは、他者や世間に対する感謝ということではなかろうか。感謝することによって、自分があたかも他者や世間と同化することができる。これは決して宗教的なものではなく、ごく自然にそうした応接ができるように自分をじょじょに鍛えていくということである。そうしたふるまいを習慣化することによって、自分は楽に生きることができる、と。
とはいえ、実践するには、とんでもなく難しいことではあるな…。
ジュリーニのバッハを聴く。
ジュリーニの指揮者人生は決して短いものではなかったが、バッハを録音したディスクはこの「ロ短調ミサ」のみだと思う(このバイエルンの他に、ニュー・フィルハーモニアを振ったライヴ盤があるようだ)。
全体を通じて、ジュリーニらしい、厚いカンタービレを効かせたもので、荘厳にして麗しい演奏となっている。ただただ、正座し頭をたれるしかない。なんて、正座どころか、ときにはipodを電車で聴いている有様である。
独唱も合唱も肌理が細かくすばらしいが、私が着目していたのは、まずはフルートの独奏。「グローリア」はこの音楽の核心をなすものだと思うが、この5曲目である。この長いながーい独奏は、あたかも永遠を意識するような神秘感を感じるとともに、息継ぎが明瞭に聴こえるあたりで人間味をも感じて、微笑ましくも思うのだ。
「グローリア」の8曲目、ホルンのソロが聴こえてくるあたりで、ウトウトし始めるのが習わしだ。申し訳ないが、ときどき本当に眠ってしまう。そんなときは、起きて、おもむろに8曲目をセットしてもそもそと聴き直すのだ。
それにしてもこの3ヶ月、部分的にではあるにせよ、ほとんど毎日聴いていたが飽きがこない。歌手、合唱、オーケストラ、みんないい。じっくりと、練りに練られている。
素晴らしいバッハ、そしてジュリーニに感謝。
ルート・ツィーザク(S)
ロバータ・アレクザンダー(S)
ヤルド・ファン・ネス(A)
キース・ルイス(T)
デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
バイエルン放送交響楽団&合唱団
1994年6月、ミュンヘン、ヘラクレス・ザールでのライヴ録音
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