藤谷治の「あの日、マーラーが」を読む。
「2011年3月11日。東京・錦糸町の錦糸ホールで新世界交響楽団のコンサートが開かれようとしていた。演目はマーラーの交響曲第五番。しかし、14時46分、東日本大震災が発生する」
東日本大震災。東北から関東に住んでいる人にとっては忘れがたい記憶であろう。その日、私は東京で勤務していた。東北で被災した方には申し訳ないくらいに小さいことだが、あの日は首都圏もじゅうぶん怖かった。当時は有楽町にある古いビルの3階にいて、私を含めた同僚はみんな、机の下にもぐったものだ。まさか、こういうことを現実に行う日がくるとは思わなかった。埼玉にあった自宅には戻らずに、実家まで、ほうほうのていで歩いて帰った。途中で見かけるコンビニの食品はすべて売り切れており、この世の終わりの始まりかと思ったもの。ビルの壁に亀裂がはしっているのを見たのは後日のこと。
都内の交通機関がマヒしている状況のなか、新日本フィルハーモニー交響楽団は、すみだトリフォニー・ホールでのコンサートを決行した。指揮はダニエル・ハーディング。その模様はテレビのニュースでも放映されていたから、あなたもご覧になったかも。1900を超える座席は完売していたが、実際に来ることができた人は105人。
本書は、当日来ることができた何人かにスポットをあてて、彼らの思いを綴ったフィクション。音楽評論家、離婚したばかりの女性、ひとり暮らしの老未亡人、美人ヴァイオリン奏者のおっかけの青年。交響曲の進行とともに、彼らの心象風景が情感豊かに描かれる。
作品としての完成度はさほど高いとは感じなかったものの、一気に読了した。あの日を描くことに、やはり意義があるように思わないわけにいかなかった。
カッチェンのピアノで、ブラームスのピアノ・ソナタ3番を聴く。
ブラームスのピアノ・ソナタはみんな若書き。最後となった3番は彼が20歳のときに作曲された。3曲とも若さならではの、隠しきれない激情に満ちているが、3番は格別だ。暗い青春の荒っぽさとメランコリーをこれほど、ど真ん中ストレートで投げ込んでいる音楽も珍しい。
だから、いままで聴いたいろいろなピアニストに、そういった激しさを求めていたし、満足した。このカッチェンによるピアノにも、そういう要素はある。でも彼の場合、知性が強い。楽譜のすみずみまで目を通したうえで、熟考したことが窺える。考え抜かれている。
テンポの変化や強弱のつけかたはとてもデリケートであり、とても自然。そのあたりは速い楽章にも緩徐楽章にもあてはまるもので、ルバートは多いけれど違和感は皆無。
なかでも、2楽章は寄木細工のように繊細で暖かい。3楽章はたきぎ切りのように強く激しいが、手触りはしっとり。いままで聴いたピアノの中で、もっとも感銘をうけた。
1962年~1965年、ロンドン、デッカ第3スタジオでの録音。
海へ。
重版できました。
「ぶらあぼ」4月号に掲載されました!PR