西村賢太の「春は青いバスに乗って」を読む。
これは、バイト先の気に食わない奴を襲撃し、止めに入った警官を殴って留置場に放り込まれ、そこで過ごす日々を描いた短編。
相変わらず、下品ななかにユーモアがにじみ出る文章である。
留置場のなかの細部が丁寧に描かれており、勉強になる。
著者はこんなことをのたまう。
「ところで慣れを云うのは恐ろしいもので、当初一秒でも速くここから出たかった私も、それから三日も経てると、これでもう少し煙草が吸え、たまに面会人でも来てくれれば、それ程留置場と云うのも悪くない気分になっていた。(中略)現に健康面でも、毎日飲酒していた私がここに来て一週間足らず、その間、当然ながら一滴の摂取もないだけでえらく体にキレがあり、頭も妙に爽快である」。
わかる気がするのがコワい。
ポリーニのピアノでドビュッシーの前奏曲集第1巻を聴く。
冒頭から低音をじっくりと利かせた精妙な音色を醸し出している。
強弱の変化を細かくつけた味付けは、説得力がある。「アナカプリの丘」の、ジャズ風な場面のニュアンスなどうまいものだ。楽譜を深く読み込んだ汗を感じる。
ただ、「野を渡る風」などを聴くと、音の濁りが気になる。基本的にポリーニの音は硬い(DGの録音の匙加減もある)。それはいいのだが、特にフォルテッシモをやると、混濁し、見通しが悪くなる傾向がある。ことにドビュッシーのような音楽だと、致命的になりかねない。「音とかほりは夕暮れの大気に漂う」や「西風のみたもの」、「沈める寺」もそう。
録音当時、ポリーニは56歳。
ライナー・ノーツにあるが、同じイタリアのピアニストであるミケランジェリがこの曲をリサイタルでの主要な演目に加えるようになったのは50代後半からだそうである。
ミケランジェリはレパートリーが限られたピアニストであったけれども、ポリーニがやった曲目と被ることもある。その場合、両者のスタイルが似ているせいで比較してしまうけれど、いつもミケランジェリの方に分があるように感じる。ショパンにせよ、ベートーヴェンにせよ、このドビュッシーにせよ。
好みの問題かもしれないが。
1998年6月、ミュンヘン、ヘラクレス・ザールでの録音。
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