開高健の「最後の晩餐」を読む。
これは、古今東西の食に関して果てしなき追求をしたエッセイ。
下はドッグフードから上は王侯貴族のフルコース、さらには喫人の話まで。
中国は、特に唐代において「両脚肉」と呼んで人間の肉を市場で売っていたと云う話や、アメリカでは年間263万トンものドッグフードが生産されていると訊きドッグフードを使った料理を開陳したり、あるいは辻静雄が提供する12時間もの時間をかけたフルコースの晩餐など、興味が尽きないエピソードの数々が開陳される。
なかには、災害時の食事についても触れており、これがまた面白い。大地震に備えてなにか備蓄しているか?との問いを作家仲間に電話リサーチする。
「ない。何もしていない」 阿川弘之
「竹やぶだと地割れしないと聞いたので家のまわりに孟宗竹を十本ほど植えた。それだけや」 遠藤周作
「(はなから笑声で)地震がきて、家がつぶれて、その下敷きになって死ぬというのに、なぜ缶詰を買いおきしておくんだ。エ。おまえ。」 吉行淳之介
ブリュッヘンの指揮でシューベルトの交響曲6番を聴く。
ノン・ヴィヴラートによる演奏は、モーツァルトやベートーヴェンには演奏によってはいいものがあるのは知っているが、ことシューベルトについては、あまりいい印象がない。シンフォニーと云えどもシューベルトはシューベルトであって、歌の人なのだ。だからヴァイオリンの音はいささかの湿り気が欲しい。
なので、このCDの「未完成」はあまり、ピンとこなかった。よく考えられた演奏であるとは思うものの、やはり潤いに欠ける。
それに比べると、この6番はいい。「未完成」のような息の長いフレーズが少ないからだろう。こうしたフットワークの軽い音楽だと、むしろノン・ヴィヴラートの良さが生きる。
1楽章は快活。朝に聴いたら元気が出そう。
2楽章も軽快。全体的に音が短く、ウキウキしている。
プレストのスケルツォも、もはや云うまでもなくノリがいい。モーツァルトのアレグロを思いおこさせるスピード感がいい。
終楽章は、カラッと晴れた休日の朝の散歩。木管と弦との掛け合いが気持ちいい。そこに耳掻き一杯の鬱屈があるのがシューベルト。
18世紀オーケストラは好調。危なげなし。
1993年11月、オランダ、ユトレヒト、フレデンブルクでの録音。
冷やし中華とツイッター始めました! 久しぶりの鱧。
久しぶりのペドロ。
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