マルクス・アウレーリウスの言葉は正論だ。それだけに厳しい。
けれど、それをひも解くのが木曜日の夜ならば、いくぶん気が軽い。
「もしある神が君に『お前は明日か、またはいずれにしても明後日には死ぬ』といったとしたら、君がもっとも卑劣な人間でないかぎり、それが明日であろうと明後日であろうとたいして問題にしないだろう。というのは、その間の期間などなんととるに足らぬものではないか。これと同様に何年も後に死のうと明日死のうとたいした問題でないと考えるがよい」(第4巻47)。
バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの演奏で、ドビュッシーの「海」を聴く。
ドビュッシーの管弦楽曲は、あまり好んでいない。「管弦楽のための映像」だとか「牧神の午後の前奏曲」、あるいは「夜想曲」の「祭り」以外、こういったところは、悪いとは思わないものの、歴史に燦然と輝く音楽とは思えない。好みである。
そんななか、「海」はわりと好きだ。ジュリーニ/ロスアンジェルス・フィル、マゼール/クリーヴランド管弦楽団、オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の演奏を、たびたび聴いている。どれもアメリカのオーケストラだ。この曲に関しては、観念的で厚ぼったい演奏より、軽やかで明快な演奏を気に入っている。
このバーンスタイン盤も、もちろんアメリカのオーケストラだ。以前に何回か書いたが、1960年代のバーンスタイン/ニューヨーク・フィルの状態はとてもいい。彼のドビュッシーは珍しいと思うが、どうしてどうして、立派な演奏である。
細部は重箱の隅をつつくように精妙だし、流れは自然だ。ブーレーズの演奏でも聴こえなかった音が明確に聴こえたりするところも面白い。たまに、弦楽器をポルタメントで弾かせるところも、ここではお洒落に聴こえる。
マルティノンの演奏のような、おフランス感をここに期待してはいけない。あくまで、管弦楽の精緻さとその妙味を聴く演奏だ。それでいて、若々しく雄弁。「海の戯れ」で、ハープが左から右に流れて聴こえるところなんかは、ステレオ芸術と言えるのじゃないか。
「風と海の対話」では、恣意的なテンポの揺れを醸し出す。ここは好みが分かれるだろう。なんとも言えない。しかしそれでも、全体を通してはやはりオーケストラ団員の自発的と思えるような、はち切れんばかりの雄弁さがものを言っており、とても聴きごたえがある。
この時代のバーンスタインは、聴きのがせない。
1961年10月、ニューヨーク、マンハッタン・センターでの録音。
休憩。
重版できました。
「ぶらあぼ」4月号に掲載されました!PR