スイトナー指揮 ドレスデン・シュターツカペレ髙村薫の「レディ・ジョーカー」を読む。
1兆円企業の社長誘拐を軸に、さまざまな登場人物の日常生活を精緻に描き出す。
工場作業員の退屈さ、警察の後ろめたさ、検察の陰湿さ、永田町の卑劣さ、新聞社の慌ただしさ、企業のソツのなさ。
金よりも、わけのわからない情や思い入れに生きがいを見出す人間。それがこの小説の根幹をなしている。
著者は「照柿」で、工員の作業をパラノイア的な緻密さと長さでもって延々と描きつくたことがあって、その退屈さに圧倒されたものだが、この作品はあまりにも素材が大きいためか、各場面がバランスよく書かれている。
終盤、担当刑事の合田が趣味のヴァイオリンを弾きながら犯人を思うモノローグが印象的。
「未来のなさという意味ではまさに檻の中の檻に自分を追い込んで、あんたはいま、こんなはずではなかったと自分の人生を唾棄しているのだろう。そら、モーツァルトを聴け。豚のような人生でも、人間が純粋でいられることを知っている俺のほうが、あんたよりまだ少しは救われている。」
といいつつ、豚小屋の人生でも「企業を脅して楽しみ、無意味な現金授受を繰り返して楽し」む犯人に、むしろ充足があるのだと想像する。
実生活の圧倒的な重み。その重みに音楽はどう対抗できるのか。
スイトナーの「ハルサイ」。若いころに聴いた、柔らかいベートーヴェンやモーツァルトの印象があるせいで、彼が「ハルサイ」をやるイメージがつかめなかった。聴いてみると、ドラティばりの切れの良さ。ドレスデンは、こんなにパンチの効いた音も出すのか。
録音年代からするとスイトナーは40代前半。まだ血気盛んな頃といえる。N響で枯れた味わいを見せていた彼とは、一味違う。
「春のきざしと乙女たちの踊り」での、リズミカルな進行。軽やかさと暴力性が混ざり合った血のめぐりの闊達さ。「大地の踊り」でのティンパニの規則正しく臨場感のある叩きっぷり。温厚ともいえるベートーヴェンの演奏に慣れた耳には、意外なほどに派手なのである。
知性を保ちつつ緻密でありながら、かゆい所に手が届くような鳴りっぷりは、ブーレーズの3種の録音よりも鮮烈な感じがするし、意外性を考慮すればドラティとおなじくらい、もしくはそれを上回るほどのインパクトがあるかもしれない。
さらに録音された1964年当時を思えば、この演奏は問答無用に他を圧する。ブーレーズ、マルケヴィッチは及ばない。演奏、録音ともにこのスイトナー盤をとる。
パンチの利いた鮮烈さは際立っている。
1964年、ベルリンでの録音。
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