ミーシャ・マイスキー(Vc) マルタ・アルゲリッチ(Pf)福田和也の「人間の器量」は、喉元過ぎればの古き良き時代に思いを馳せた人物評。
この本の言わんとするところは、第1章の「なぜ日本人はかくも小粒になったのか」という表題に集約されている。要するに、昔の人は偉かった、と。その例として、江戸時代の島津藩の藩士教育の厳しさをあげている。
島津藩の殿様が大規模な巻き狩りを行った時、命令を下す前に鉄砲を打った者がいて、そのために獲物を逃がした。殿様は、勝手に発砲をしたものには切腹を申しつけると命じると、次々に発砲する者が出た。激怒した殿様が発砲したものに聞くと「切腹が怖くて、撃たんと思われるのは名折れです」と答えたという。
著者はこのエピソードに感嘆している。確かに驚くし、スゴすぎるが、やせ我慢の延長のような気もするなあ。ここまでやるか。
終章に「結局、気にかける人、心を配る人の量が、その人の器量なのだと思います」とある。これがオチでは、あまりにまっとうで面白くないが、これくらいでいいのだろうな。そう考えれば、平成も捨てたものではない。
シューマンの幻想小曲集。これはチェロとピアノのほう。ピアノ独奏のものも良いけれど、こちらも味わい深い。
これはマイスキーとアルゲリッチのコンビによる、最初の録音にあたる。
マイスキーのチェロは繊細でデリケート。ロストロさんに慣れてしまった昔は、これはちょっと物足りないと思ったものだが、今思えば、ロストロさんの押しが強すぎるのだ。
シューマンの多くの音楽と同様に、幻想小曲集も夜の帳によく似合う。マイスキーの肌理の細かなチェロは、じわじわと霊感を醸し出す。
アルゲリッチのサポートはチェロにぴったりと寄り添ったもので、とくに弱音は美しい。わずかに水分を含んでいるような潤いのある音からは、気高さと色気が立ち上る。これがまた、いい感じに幻想世界を演出している。
1984年1月、スイス、ラ・ショード・フォンでの録音。
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