小谷野敦の「俺の日本史」を読む。
「『なぜ』という問いは教育の場などで重要だと思われているが、歴史においては、確固たる答えがあるとは決まっていない。問われること自体、分からないから問われるのだということだ。問うこと自体は無意味ではないが、最終的には『分からない』ということも、少なからずあるのだ、ということは心得ておくべきだろう」
「俺の」とあるように、著者の嗜好がストレートに打ちだされている。彼は文芸評論家であり小説家であるが、日本史に関する知識は膨大。古代から幕末までをわずか239ページに収めているため、人物名がやたら多く出てきて密度が濃く、読むのに時間がかかった。
「平家物語」や「歎異抄」の批判など切れ味はいい。千利休は、権力者に逆らって処刑されるところがキリストっぽいから、「日本の茶道はキリスト教なのである」との説は、いささか突飛だが面白い。
それに対し、場面によっていちいち大河ドラマを引き合いに出しているあたりは、まあどうでもいい。いままで信長を演じた俳優は高橋幸治、高橋英樹、藤岡弘・・・・・・といったあたりは、お好きな方はいいかも。
全体を通じて、俺流である。良くも悪くも題名に嘘はない。
ジュリーニ指揮ベルリン・フィルの演奏で、シューベルトの交響曲9番(ジャケット記載に倣って)「グレイト」を聴く。
基本的には、ほぼ同時期にセッション録音されたシカゴ交響楽団の演奏と同じ。
ジュリーニを生で聴いたのは1度だけだが、そのほかにFMでのライヴ放送やテスタメント録音をいくつか聴いた限りだと、彼はライヴとセッションとで演奏の温度差が少ない指揮者だと思う。そのあたり、一緒にシカゴ交響楽団をやっていたショルティと似ている。
もちろん、1楽章第1主題は必殺のレガートが炸裂。ジュリーニのマジックのひとつである。最初にシカゴ交響楽団で聴いたときは、のけぞった。
聴きどころはオーケストラの違い。こちらは、弦が重厚。こってりとした、血の滴るビフテキのような味わい。このあたり、カラヤン時代のベルリン・フィルである。金管楽器はあまり前面にたたないが、ここぞというところではガツンと咆哮する。
1楽章のラスト近くと2楽章のラスト近く、そして4楽章のラストで、ジュリーニが大きく叫んでいる。このあたりはライヴならではの醍醐味。
1977年1月、ベルリン、フィルハーモニーでのライヴ録音。
夜の空港。
3月に絶版予定。。
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