シューベルト 交響曲第3,「未完成」 C・クライバー指揮ウイーン・フィルシューベルトの「未完成」といえば、題名だけは誰もが知る名曲中の名曲。レコード会社が企画するなんとかベスト100なんていうシリーズのカタログの筆頭が「運命」/「未完成」のコンビであることが多かった。今はそうでもないみたいだけど。
最初に買ったのは、フルトヴェングラーのコロンビア盤。A面には「未完成」のあとに「運命」の1楽章が入っていて、2楽章がB面から始まっていた。その次に入手したのはカラヤンの60年代のDG盤。見開きのジャケットが豪華で、本体よりもこっちのほうが高くつくような代物であった。友達がめぐんでくれたものだ。
「未完成」を好んで聴けるようになったのは、ここ10年くらいのことだ。それまではなにがいいのかわからなかった。地味な旋律がうだうだと続いていてダイナミックにかけると思っていたのだ。だから「運命」ばかり聴いていて、「未完成」のほうはほとんど針を通すことがなかったように思う。
で、あるときふと「未完成」に開眼した。ムラヴィンスキーかクライバーかのどちらかだったはず。
それは自分が「水車小屋の娘」や「冬の旅」などの歌曲集、即興曲やピアノソナタを面白いようになった後のこと。ある音楽を聴くためには、それなりの手順が必要なのだろうか。
この曲の3楽章を聴いたことがあるが、途中までしか書かれていないというハンディを補っても、最初の2楽章とのバランスが悪いと感じた。研究ということでは価値のある作業かもしれないが、聴き手にとってはふたつの楽章で充分であり完結されていると思う。というよりは、この曲ほど高度に完成された交響曲はそうそう見当たらない。「極度の緊張を持つ壮麗に組み立てられたソナタ形式の楽章」(アインシュタイン)という言葉を待つまでもなく、比類ない完成度がある。
さらにこの音楽の高さは、そういった構成面だけではなく、劇的なドラマ性にある。昇天するような錯覚を覚えさせられるメロディーが続くかと思えば、地獄のふちにたたされてうしろをポンを押されるのを待つ残酷さが顔をのぞかせたり、起伏が激しい。ただこれは指揮者によってほんとうにマチマチで、作曲家の悪魔的な側面を掘り下げることに成功したのが、ムラヴィンスキーとC・クライバーだと思う。この2つの演奏はこわいので、頻繁に聴くことはないのだが、たまに取り出すと、いろいろな意味でとても充実した体験をすることができる。あとケルテス盤も勢いがあってすばらしい。
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