シューベルト ピアノ・ソナタ集 ワルター・クリーン(Pf)村上春樹の「意味がなければスイングはない」を読む。
文庫本で平積みになっているのを店頭で発見して入手。
単行本で何度か読んでいるけれど、いまだにクラシック以外の章は手つかず…。
それに比べて何度も目を通している、ゼルキンやルービンシュタイン、プーランク、シューベルトについての文章はめっぽう面白い。
ふたりの対称的なピアニストの伝記から迫る人間像、プーランクを「世界中のお膳をひっくり返してまわるよう」に弾く、ホロヴィッツ。
腕を振るった贅沢な料理と上等のワインを前にしたように、聴かないではいてもたってもいられなくなるのだ。
そんなおいしい文章。
シューベルトのニ長調のソナタについて語る章もそう。そもそも、これを読んでこの曲を聴き始めたようなもの。
偉大すぎるモーツァルトとベートーベンに対するシューベルトについて。
『しかしシューベルトの音楽はそうではない。目線がもっと低い。むずかしいこと抜きで、我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる』。
モーツァルトやベートーヴェンも、損得抜きでいいものだと思うけれど、この文からはじんわりと著者のシューベルトに対する思い入れが伝わってくる。
この章のテーマである、シューベルトの17番のソナタについて。レコード録音の歴史においては、初期、中期、後期に大別されるという。その、中期の録音で、一番気に入っているのがクリーンとのこと。
『このシューベルトのニ長調もまことに素晴らしい。気張ったところのない、見事に自然体のシューベルトである。シューベルトを胸いっぱい吸い込んで、そのまますっと吐き出したら、こんな音楽が出てきました、という感じだ』。
そう、クリーンのシューベルトは、自然体。大袈裟な仕草や、背伸びがまるでない、普段どおりのやり方。
カラッと晴れた、青空の澄み切った冬の日曜日に、近くの公園に散歩に行くような、そんな身近さ、気楽さをここに感じるのだ。
このソナタでは、2楽章を特に気に入っている。
話下手な青年が、なにかを伝えようと、懸命に口を動かそうとしている、そんな音楽だ。
いいたいことはたくさんあるのだけど、不器用なので、それをうまく伝えることができない。
胸につまっているものはたくさんある。スマートに伝えることはできないけれど、勇気を出してなんとか伝えたい。その思いを、渾身のちからを振り絞って口から放つ、そんな熱い情熱が、クリーンのピアノのはしばしから聴こえてくるのだ。
1971年~73年の録音。
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