養老孟司の「手入れという思想」を読む。
これは、今世紀初め頃に養老が行った講演を文庫化したもの。
内容は、教育について、死について、現代の学生について、脳について、都市についてなど、多岐にわたっており、どれも興味深い。
なかでも体について、ことに脳についての解釈はキレが良い。
意識というものは脳がやっている。しかし例えば、息をするということをとってみたら、これは意識しないでやっている。脳が命令しているからである。となると、意識よりも脳の働きのほうが広いことになる。その脳はさらに、体の一部である。だから、体のほうが広い。よって、意識が脳や体のことを論じるのは不十分だということである。
明快である。意識が人間世界を牛耳っていると思っていたが、体はもっと広いといわれると、不思議と愉快な気持ちになる。
東京クヮルテットとズーカーマンのヴィオラで、モーツァルトの弦楽五重奏曲3番を聴く。
この曲は、4番のト短調とよくカップリングされている。かなり単純に言ってしまえば、陽と陰。いい曲であるし、時間的にもLPのそれぞれ片面に収まることから、このカップリングは、もうこれしかないというくらいにぴったりしたものだ。
ずいぶん前にスメタナSQとスークのLPを買って、一時期はよく聴いていた。ただ、このときはもっぱらト短調ばかりを聴いていた。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」をいう文を知ったのは後のことだが、陰のある旋律の美しさ速さに魅了されたものだ。
しかし一方のハ長調については懐疑的だった。この曲は、ト短調に比べるとだいぶ落ちるんじゃないかなと思っていた。それは長いこと。具体的には先週まで数十年間。
この東京SQの演奏で、やっとハ長調に開眼した。
ことに素晴らしいのは3楽章のアンダンテ。ヴァイオリンとヴィオラの掛け合いのところは愛の囁きを思わせ、切なくなるほど美しい。
ワーグナーの「トリスタン」の愛の旋律もなかなかだが、清冽さにおいてこのモーツァルトには及ばないと思う。
この曲、間違いなくモーツァルトの傑作のひとつである。
世の中、まだまだ知らないことばかりだ。。
スメタナSQのも聴き直してみよう。
ピーター・ウンジャン(ヴァイオリン)
池田菊衛(ヴァイオリン)
ピンカス・ズーカーマン(ヴィオラ)
磯村和英(ヴィオラ)
原田禎夫(チェロ)
1991年6月、ニュージャージー、プリンストン大学、リチャードソン・ホールでの録音。
アンティーク市場。
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