ドストエフスキー(亀山郁夫訳)の「罪と罰」を読む。
この作品を読んだのは、学生時代以来で2回目。最初に読んだのは新潮文庫だったから、工藤精一郎の訳だったと思われる。
薄暗くて狭い部屋のなか、サモワールが湧きたつなかで展開された会話劇は、よくわからなくとも重い手ごたえを感じたもの。
それから30年近く。人生の酸いも甘いもわかったかどうかわからないし、ほとんど意味もなく年を経てきた人間にとって、この作品はまた新たな読み方ができる。
昔は、もっぱらラスコーリニコフやソフィアに傾倒していたが、今読むとむしろマルメラードフやスヴィドリガイロフに感情移入しないではいられない。スヴィドリガイロフは、後続の長編である「悪霊」の、スタヴローギンの恐らく原型であることは、誰かが言っているだろうからここでは述べない。強く感銘を受けたマルメラードフについて簡単に述べたい。
彼は、下級役人でアル中。貧乏子だくさんを絵にかいたような生活を送っている。娘の一人に至っては、街娼をしている(それがソフィア)。今の妻は後妻であり、仲がいいのか悪いのかよくわからないが、とにかく彼は一日中飲んだくれている。居酒屋で会ったラスコーリニコフに、自分がいかに不幸であるかを愚痴る。
その彼は後日、たまたま通りかかったラスコーリニコフの前で、馬車に轢かれて死ぬ。同情したラスコーリニコフは、母親からの仕送りを全て、葬式代として彼の妻に渡す。
学生時代に読んでクズだと思っていた人物が、この齢になって読み返してみると、不思議な光を放っている。その生き方が、自分と重なってきたからだろう。
ラスコーリニコフはそんな彼を認める反面、金貸し老女アリョーナを殺すといった矛盾した行為をするところを読み説くのが、この長編小説の大きな肝であるようだ。
翻訳の善し悪しはわからない。ただ、読みやすかった。
オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏で、チャイコフスキーの交響曲5番を聴く。
チャイコフスキーの交響曲のなかで、5番はあまり好きではない。好きな順序は、1番、6番、2番、4番、マンフレッドか5番、といったところ。
カラヤンはもとより、ショルティやセル、ムラヴィンスキーの指揮でさえ面白く感じないのだから、相性が良くないのだろうと思っている。
オーマンディのチャイコフスキーを1番から4番まで聴いた。とくに1,2番は質の高いと思ったが、4番はまあまあだったので5番はあまり期待していなかった。
しかし、よかった。
なにより音の広がりが凄い。こんなに隅々まで空間を使いきったチャイコフスキーは、そうそうないものだ。
1楽章の展開部の後ろのほうで、第1主題をファゴット、クラリネット、フルートが奏する箇所は絶品。音に芯がある。そしてそのあと、弦が攻勢をかけるものの、クラリネットが後ろで上下運動をしているのかクッキリと聴こえる。冴えるフィラデルフィア、そしてやはりスゴすぎるチャイコフスキー。
2楽章は全曲中の白眉。ホルンのコクのある音色は、フランスのものでもアメリカのものでもない気がする。まろやかな音にスプーン一杯の古めかしさがあって素敵。
弦楽器は、たっぷりと厚い。そしてよく粘る。ほどよく熟成された肉でもって絶妙な火加減で調理された、サーロインのロースト・ビーフのよう。血が滴るような生々しさをも備えている。
中間部でのクラリネットとファゴットは、やはりいい。
3楽章はまずまず。この曲って、聴かせどころがない。落ち着いた佇まいが上品ではある。
終楽章も落ち着いている。落ち着き払った情熱の吐露。いままで書かなかったが、トランペット、ホルンを始めとする金管群は好調を維持している。強い音はどうにでもなるだろうが、弱音のコントロールが素晴らしい。その音量によって、木管楽器とのハーモニーが決まる。この演奏では、木管楽器がとてもよく聴こえる。それによって、大きな広がりを生み出している。
ラストは堂々と火花をぶちかまして終結。
1974年3月、フィラデルフィア、スコティッシュ・ライト・カテドラルでの録音。
おでんとツイッター始めました!ひと休み。
PR