ドストエフスキー(工藤精一郎訳)の「罪と罰(上巻)」を読む。
「老婆を殺し、その金を奪うがいい、ただしそのあとでその金をつかって全人類と公共の福祉に奉仕する。どうかね、何千という善行によって一つのごみみたいな罪が消されると思うかね? 一つの生命を消すことによって -数千の生命が腐敗と堕落から救われる。一つの死と百の生命の交代- こんなことは算術の計算をするまでもなく明らかじゃないか!」
この作品を読むのは、昨年以来3度目。「罪と罰」は、主人公の苦悩の率直さと、登場人物が端的に描かれているという点で、「カラマーゾフの兄弟」よりも好きな作品。「白痴」は学生時代に読んでとても深い感銘を受けたけれど、舞台設定がやや特殊なので今読んだらどうかしら。もう一度読んでみたいとは思うけれど。「悪霊」は正直言って、よくわからなかった。
昨年に読んだのは亀山郁夫の新訳。これは、賛否両論あるようだが、こうして比較して読むと、亀山訳はディテイルをしつこいくらいによく掘り下げており、これはこれで一興だと感じた。
さて工藤の訳、新しいものかと思っていたが、1987年初版という。学生時代に読んだのはやはり新潮文庫であったが、米川正夫だったと思う。工藤は、米川の次の世代にあたるものだろう。
亀山訳に比べると、流れがよく、淡々としていて、あっさりしていて、読みやすい。細かいところに拘泥しないで、全体を大づかみにしている。ラスコーリニコフの苦悩が、客観的に眺められる、と感じた。
上巻は、ラスコーリニコフが予審判事のポルフィーリイに、自分が過去に発表した論文の説明をしたところまで。この論文は「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」という理論を展開したもの。ポルフィーリイの追い込みは後のアメリカのドラマ「刑事コロンボ」のそれを思わせる。最初から犯人をわかっているくせに、トボけたふりをして犯人をだんだんと追いつめる。ただ、コロンボみたいにいやらしくならないのは、ポルフィーリイの繊細な知性がモノをいっているからか。
このあたりの舌戦は、下巻においても繰り広げられる。本作品の最大の読みどころのひとつである。
キーシンのピアノ、ジュリーニ指揮ウイーン・フィルの演奏で、シューマンのピアノ協奏曲イ短調を聴く(1992年5月、ウイーン、ムジークフェライン大ホールでのライヴ録音)。
冒頭からズシンと力のこもったトゥッティ。思えば、ウイーン・フィルのシューマンの協奏曲の録音はそんなに多くない。コクのある、いい音。
この頃のジュリーニは、遅いテンポを持ち味にしていたけれど、ここではさすがにキーシンに合わせている。中庸なテンポ。
録音当時、まだ二十歳そこそこのキーシンのピアノは好調。音色はクッキリと冴えているし、細かく動くテンポと強弱は柔軟性があって、まるで生き物のよう。
ジュリーニのオーケストラは、たっぷりと厚い。
カデンツァは流麗。変幻自在、という感じ。
夢見心地な2楽章を経て終楽章、やっぱりこの時代のキーシンは速いテンポの曲に向いているように思う。ひとつひとつの音が粒だっていて、華やかで鮮やか。
図書館。
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