マルクス・アウレーリウスの言葉は正論だ。それだけに厳しい。
それをひも解くのが水曜日の夜だと、やはり、いささかツラい。
「君が自分の義務を果たすにあたって寒かろうと熱かろうと意に介するな。また眠かろうと眠りが足りていようと、人から悪くいわれようと責められようと、まさに死に瀕していようとほかのことをしていようとかまうな。なぜなら死ぬということもまた人生の行為の一つである。それゆえにこのことにおいてもやはり『現在やっていることをよくやること』で足りるのである」(第6巻2)。
カザドシュのピアノで、シューマンの「幻想曲」を聴く。
このピアニストでよく聴くのは、セルとやったモーツァルトや、フランチェスカッティとのベートーヴェン、あるいはラヴェルである。
このシューマンもセッション録音で存在するらしいが、まだ聴いていない。なので、カサドシュのシューマンを初めて聴く。
このディスクには、1960年と1964年との2回にわたるライヴが収録されている、いずれもオランダ放送協会によって収録された放送音源らしい。
2回の演奏会で、シューマンはこの曲と「蝶々」、「交響練習曲」を取り上げているので、彼はシューマンを好んでいたのだろうと思われる。ただ、「交響練習曲」はカットが多くて、ちょっと閉口した。
「幻想曲」は、明朗にして直線的なシューマンだと思う。これをフランス流といったら乱暴だろう。確かに、かの国はデカルトの登場以来、合理的な考えをもつ国柄とされている。社会人になってからようやく「方法序説」だけは読んだが、じつはフランスがなぜ合理的なのかはわからぬ。
だから、こうした解釈は、カザドシュの個人的な要因だと思うことにする。
このライヴ、他の曲、例えばベートーヴェンの28番とか「交響練習曲」というところは、けっこう瑕疵がある。彼は1899年生まれだから、当時ピアニストとしてさほど高齢というにはあたらない。ライヴだから、ということなのだろうと理解している。
だが、この曲についてはミスは少ない。実に流麗に、軽やかに弾いている。シューマンの「仄めかし」とか「翳り」といったものはここでは見受けられない。いっけん軽快なピアノから、ほのかな憂鬱が立ち上るのである。
これは、いいシューマンである。
1960年3月27日、アムステルダム、コンセルトヘボウでのライヴ録音。
休憩。
重版できました。
「ぶらあぼ」4月号に掲載されました!PR