シューベルト「冬の旅」 シュライアー(T) リヒテル(Pf)小谷野敦の「禁煙ファシズムと断固戦う!」を読む。
車内の禁煙を決めたタクシー会社に抗議の電話をかけ、京王線のホームの片隅で吸っていたところを注意した駅員に論戦を挑み、タバコを迫害するような記事を載せた朝日新聞を糾弾し、果ては東京大学が敷地内の禁煙を決めたことで、勤めていた非常勤講師まで辞めてしまう著者。過激きわまる戦いである。
著者の言い分は、「脱タバコ社会への提言」などを出した日本学術会議への抗議文に集約される。
「2003年5月の健康増進法施行以後、私たち喫煙者は、不当な迫害に遭って参りました。同法は「分煙」の配慮義務を定めただけであるのに、建物、駅、果ては新幹線などまでが全面禁煙にされるという状況にあり、苦しい日々を強いられております。」
「なるほどタバコは体に悪いでしょう。しかしでは同様に体に悪い酒についてはなぜ何も言われないのか、また他人の健康に害を及ぼすという点では自動車のほうが遥かに大であります。これらを勘案すれば、貴団体の今回の要望が、合法である喫煙を行う者に対して差別的であり、人権を侵害する内容を含んでいることは明らかであります。」
私も煙草を吸うから肩身の狭い思いをしている。だから小谷野の言い分がよくわかる。ただ、ひとつ気に食わないのは、小谷野は酒を飲まないし自動車も運転しないこと。誰しも自分が嗜好しないものに対しては寛大ではない。
もっとも、理にかなった考えにブレはない。体に気をつけてがんばってほしい。
シュライアーによる「冬の旅」の初のレコード録音は、ドレスデンのゼンパーオペラでのライブであった。
オペラハウスのこけら落としに、よりによって「冬の旅」を選ぶとはなかなかの趣向だ。主宰者の見識が高いというべきかなんというか。こけら落としで大事なのはまず集客だと思うが、2大巨匠であれば問題ないとの判断だったのだろうか。そのおかげで、シュライアーとリヒテルの共演を聴くことができるのだから文句があるわけはない。
さて、このCDが発売される前後に、FMで同じコンビによる「冬の旅」の抜粋が放送された。もしかしたらCDと同じ音源だったのかもしれない。それを聴いたときに感じたのは、ピアノのスケールの大きさだった。いままで体感したことのないくらい巨大なスケールに圧倒された。
わりを食ったのがシュライアー。じゅうぶん立派な歌だったのに、細かいところはほとんど記憶に残っていない。リヒテルのビアノばかりが印象的だったのだ。
それから20年。歳月を経て印象は変わるのか。
80年代のシュライアーのシューベルトを、主に3種の「水車小屋の娘」で聴くことができるが、この「冬の旅」ではライブならではの緊迫感がある。ところどころ感極まるところがみられる。
例えば「風見の旗」。シュライアーがいきり立っており、おそらくスタジオでは見せないだろうといったスタイルである。「凍える涙」での淡々としつつも濃くドラマティックな歌、そして「氷結」ではシュライアーの危機迫るような歌が素晴らしい。この曲は前半のピークたる内容を持つと思うが、駆け抜けるようなテンポといい、毅然とした艶やかさのある声といい、申し分ない。「回想」も激しい。シュライアーは音程を外さんばかりの熱演。
80年代のシュライアーによるシューベルトは、「水車小屋の娘」に聴くことができるように、声そのものの伸びを強調したものではなく、言葉をかみ締めるように語りかけてくるような演奏が多い。
しかしここでは時に感情が爆発せんばかりに起伏の大きな歌を聴かせる。観客を前にしての演奏だからに違いない。ときに激しいながらも、暖かみのある歌である。
リヒテルのピアノはとてもこまやかで情感に溢れている。シフのピアノも実に繊細だが、リヒテルのはより歌になじんでいるというか、自然な佇まいがあって、でしゃばることが微塵もない。しかも恰幅の大きさは20年前に聴いた印象通り。
「冬の旅」はそもそもテノールのために書かれたというが、シュライアーの歌はこの音域によるひとつの頂点というべき演奏じゃないかと思う。激しくて暖かい。
これを聴くと「冬の旅」の主人公は若者にほかならないと感じる。頬にほんのりと紅がさしている。
1985年2月17日、ドレスデン、ゼンパー・オペラでのライヴ録音。
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