ロリン・マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」を読む。
出だし近くの記述で、これは私小説であることを告白している。
「人の生死には本来、どんな意味も、どんな価値もない。その点では鳥獣虫魚の生死と何変わることはない。」
「従ってこういう文章を書くことの根源は、それ自体が空虚である。けれども、人が生きるためには、不可避的に生きることの意味を問わねばならない。この矛盾を『言葉として生きる。』ことが、私には生きることだった。」
「半」世捨て人となった主人公は尼崎に流れ着き、病気になった牛や豚の臓物を串刺しにすることで生業を得ている。背中に入れ墨のある女と関係し、ヤクザに追われて心中を図る。俺は世捨て人だとうそぶいているくせに、女への憧れを捨て去れない主人公の煩悩が、生きる矛盾である。それがなんだか、いとおしい。
陰惨な話であるが、どこか覚めていてカラッしている。そこが小説としての完成度を非常に高くしているのじゃないかと思う。
マゼールという指揮者は、時代によってさまざまに表情を変えてきたように感じる。
ワタシがクラシックを聴き始めたのは、彼がクリーヴランドの音楽監督を務めていた後期の頃なので、いまだにその時代のマゼールの「顔」が強く印象に残っている。
マゼールとクリーヴランドの大きな特徴のひとつが、メリハリの強さと鋭角的な断面にあることに異論はないと思う。
過剰なメリハリ。
それが顕著にでているのが「シェエラザード」。あまりにもキレが良い。良すぎて、すべての音がスタッカートに聴こえるほどだ。他に類をみない、孤立、いや孤高の快演である。
そういうやり方を貫きつつ、古典的な構造の綾を解きほぐすことに成功したのは、ブラームスの4番。
そして、過剰なメリハリ攻撃の集大成としてぶちかましたベートーヴェンの9番においては、堂々たるスケールまでも手に入れた大演奏になってしまった。
そして、このコンビで初めて聴いた「アルルの女」。これもいい。相変わらず、触れたら切れそうなくらいに音が短い。表情は明るくて穏やかだけど、心は静かにいきり立っている。ブーレーズじゃないけれど、「完璧への情熱」が手に取るようにわかる。セル以来の、これはクリーヴランドの伝統というべきか。この情熱は、後任のドホナーニまで引き継がれたのだった。
クリーヴランド、メイソニック・オーディトリアムでの録音
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