シュトラウス「アルプス交響曲」「死と変容」 クナッパーツブッシュ指揮ウイーン・フィル内田樹の文庫本が店頭に出ると大抵買っている。いま一番買いの評論家だ。普段はあたりまえに思って素通りしている事柄について、わかりやすく解説してくれる。
今回読んだのは「こんな日本でよかったね」。
私がカメの歩みの如く読み進めている「方法序説」からの引用がある箇所が面白い。
「オレって、誰なんだろう」といったようなテーマに取り付かれると、終わりなき考えに収拾がつかなくなってしまう。そんなときは、「そんなこと考えても埒があかないから、もういいや、ラーメンでも食おう」といった現実的な対処が必要になるわけだ。そこでデカルトが登場。長いが引用する。
「自分の住む家の建て直しをはじめるに先だっては、それをこわしたり、建築材料や建築家の手配をしたり自分で建築術を学んだり、そのうえもう注意深く設計図が引いてあったりする、というだけでは十分ではなく、建築にかかっている間も不自由なく住めるほかの家を用意しなければならないのと同様に、理性が私に対して判断において非決定であれと命ずる間も、私の行動においては非決定の状態にとどまるようなことをなくすため、そしてすでにそのときからやはりできるかぎり幸福に生きうるために、私は暫定的にある道徳の規則を自分のために定めた。」
これが内田の言うデカルト・ラーメン説。
ただ、この考えを取るとなるとラーメンのハードルはけっこう高い。私などはラーメンもろくに食えない有様だ。
アルプスの山とはどういうものなのだろう。マッターホルンの写真くらいしか見たことがないが、フツーのヒトが登ることができるものなのだろうか。
十数年前に富士山に登ったことがある。五合目まで自動車で登り、そこから徒歩で頂上を目指した。最初はハイキング気分で歩いていたが、九合目を越えるあたりから急にきつくなった。空気が薄くなり、うまく呼吸ができないのである。
あと少しで頂上というところでは、十歩進んでは空気補給のために休むといったペースになり、いつ果てるともしれない登山であった。やっと頂上に着いたときは喜びよりもホッとしたものだった。
半分も車で行ったのにこのザマなのだから、最初から徒歩で行くなどできるわけがないと思った。いまでは五合目からでもゼッタイ無理。
このクナッパーツブッシュのアルプス登りは、自動車なんかを使わない自力の歩みだ。弦にしても金管にしても、ゴツゴツザラザラした手触りでそれはいかにも手作りといった感じの風情がある。けっして流暢な語り口ではないものの、ひとことひとことに無骨な味わいがあるので耳を傾けてしまう。
ウイーン・フィルは技術的にはうまいといったイメージはないが、この演奏はライヴにも関わらず瑕疵は少ない。
この曲をいままであまり好きではなかった。それぞれの曲につけられた大仰な名称も。だいたいアルプス登山中に嵐なんかきたら死ぬぜ。
この演奏は何度か聴いてもまだ飽きない。
1952年4月20日、ウイーン音友協会大ホールでの録音。
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