西村賢太の「暗渠の宿」を読む。
これは、筆者が過去に同棲した女との振る舞いを描いた私小説。
私小説とは何か。それは、貧乏で、アル中で、女好きな男の独り言である。と、勝手に定義した。太宰も、織田も、この西村もそうである。「ああ、俺よりバカがいた」。こう読者に思わせるのが、私小説作家である。
芥川賞を受賞する前の作者。同棲相手の女が、池袋で30分の間に2人からナンパされたという話を聞く。
「そのかなりうれし気な表情に、私はたまらない嫉妬を駆り立てられてくる。そして、ついその場で女を倒し込み、そのマン毛に情痴の匂いが残ってないかをチェックする、強制わいせつじみた恥知らずな行為をも発作的にしてのけてしまうのである」。
ところが、西村は芥川賞を獲ってしまった。取りあえず、金には困らなくなる。そうすると、どうなるのか。
心配である。
シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団の演奏で、R・コルサコフの交響組曲「シェエラザード」を聴く。
これはドスの利いた演奏だ。この曲の演奏としては、破格なまでにふり幅が大きいのだけど、ロストロポーヴィチのような土臭さはなく、しっかりと西欧風な味わいを残している。解釈はとても大胆でありながら、ある一線を越えていない所は、この指揮者の独特のバランス感覚がもたらすのかもしれない。
1楽章の冒頭の主題を弦楽器が奏するところは、フルトヴェングラーばりにずり上げていて、まずそこに面食らう。
そしてハープの、ケレン味たっぷりの弾き方。なるほど、やられてみれば、この曲ではアリである。
ボーンマス交響楽団は、ロンドン・フィルやフィルハーモニア管のような精緻さには欠けるものの、シルヴェストリの大仰な解釈に対して、しっかりと粘る。このオーケストラあって実現した演奏と言える。
終楽章の追い込みはすさまじい。怒涛のような音響の塊がじわじわと寄せてきて、壮大な大団円を迎える。それはあたかも、パットン大戦車軍団。
この曲のセッション録音で、最後こんなに痺れたのは初めてかもしれない。
1966年、ロンドン、キングズウェイ・ホールでの録音。
おでんとツイッター始めました!都会。
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