ザビーネ・マイヤー(Cl) ハンス・フォンク指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団甲野善紀と内田樹の「身体を通して時代を読む」を読む。
いままで内田の著作からもらった人生のヒントは少なくないが、この本にも多くの付箋紙を貼ることになった。
紹介したい箇所が多いなかから、甲野善紀の話を引用する。武術研究者からみた、身体と心とについての考えは深い。
その一例がこれ。近頃の日本の相撲取りの弱さの理由を「現代の若者に共通するひ弱さ」とする説に対し、堺屋太一が「それだと柔道や水泳といった競技の選手がアテネ五輪で大活躍した理由が説明できない」、「むしろ、相撲という特定の競技に人材が集まらなくなった、と考えるのが合理的」と反論したことに対する反論である(ヤヤコシイ)。
「水泳や柔道といった競技と相撲とでは、その基盤となる人材の在り方がまったく違う」。
「子どもの頃から、その道のエリートの中から選び抜かれた水泳などのスポーツ種目と違って、力士の多くは大相撲に入門してから相撲を始める者が多い」。
「それだけに、その時代時代のごく普通の若者の体力、運動能力といったものが最も反映されやすい種目と言うことができる」。
なるほど。キミは身体がでかいから相撲でも始めたら、なんてノリが相撲なのであるな。なんだかいい。
いままでモーツァルトのクラリネット協奏曲を何種類か聴いてきたが、どれもいい演奏である。プリンツ、ウラッハ、グッドマン、ストルツマン、マルセリウス…。どの奏者で聴いても、格別なひとときを味わうことができる。これはちょっと、なんてがっかりしたことはない。ただ、逆に言えば、どれも同じように聴こえる。
録音やオーケストラの加減がそれぞれ違うから、目隠しで聴いても奏者はわかるかもしれないが、クラリネットそのものの違いは、ヴァイオリンやピアノほどには大きくないように思える。
曲そのものが異端を許さないほどデリケートに完成されつくしているせいなのか、ワタシが違いのわからない男なのか。
そういうわけで、このマイヤーの演奏も大変すぐれているように感じる。実際にすばらしいものだろう。じつにクッキリとしていて雄弁なクラリネットである。カラヤンがスキャンダルを起こしたほどの逸材かどうかはよくわからない。わからないというのは否定ではなく、レベルがわからないのである。
フォンクとドレスデンのオーケストラも、つややかでよい。中くらいといえば中くらいのような気もする。この曲は、この「中くらい」感がいいのじゃないだろうか。
1990年6月6-8日、ドレスデン、ルカ教会での録音。
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