エリック・ハイドシェック(Pf) アンドレ・ヴァンデルノート指揮パリ音楽院管弦楽団長谷川宏の「新しいヘーゲル」を読む。
「壮大で華麗な思考を平易な日本語で語りつくす!」。カッコイイ帯だ。好奇心をくすぐられる。ところどころ難解であり、ワタシには理解できないところがあったものの、「ヘーゲルもの」では、わかりやすい部類に入るのじゃないだろうか。
なかで印象的だったのは、歴史に対するみかた。
「腐敗や堕落と見えるものが、個人や集団の人格的ないし道徳的な低劣さゆえにうみだされるものではなく、まさに、個人が個人として共同体から離脱していくという、歴史の必然的な趨勢のなかであらわれきたったものであることに思いいたった」。
それでヘーゲルは、古代ギリシャから中世、近世、近代と続く歴史をひとつの発展過程としてとらえたのだという。
今の日本の低迷を、歴史の必然と言ってしまえるか。
ハイドシェックのモーツァルトは、軽快にして奔放。ピアノの音そのものは一粒づつがしっかり立っていて、軽やかな中にほんのりした粘りがあって、そこに艶を感じる。奔放なのは、強弱の変化と装飾音の多彩さだ。聴いていて、アレっと思う場面にしばしば遭遇する。味付けがよく曲になじんでいて、違和感はない、というかかなりいい。
全体的に表情が豊かというか、リアクションの大きい外人みたいなピアノである。じっさい外人であるが。
ヴァンデルノートの指揮もまた活発であり、いきいきしたもの。パリ音楽院管独特の、管楽器の強さが音楽に立体感と躍動感をもたせていて、それをコントロールする指揮者の技は高い。以前聴いた、シフラとのチャイコフスキーもいい伴奏だったことを思い出した。
コーホー氏はこのピアニストが好きなあまり、宇和島に呼んでリサイタルを企画したりしているが、そのあたりの演奏はどうなのだろう。なんだか聴くのがコワイような気がする。なにしろ、60年代の演奏が良すぎた天才肌の人だから。若くしてここまできちゃったら、中年を過ぎてからこれを超えるのは難しいのじゃないかと。
そういうわけで、いまひとつ聴く気がしないのだ。もったいないかな。
1961年の録音。
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