マーラー「巨人」 ショルティ指揮シカゴ交響楽団太宰治の「人間失格」を読む。
最近、PHP文庫で発売されたもの。どちらかといえば、処世術が得意なPHP文庫から、このような処世からは程遠い小説が出ることが珍しい。
実務的な勤め人もたまにはこういうものを読め、と示唆するものなのか。仕事とこれほど遠い読み物も、なかなかないだろう。
私がこの小説を読むのはたしか3回目。だいたい、15年置きに読んでいる。読むたびにそれなりの感興を得られるのだが、今回読んで感じたことがある。
主人公は、女にもてすぎる。
今までも、うっすらとは感じてはいたのだが。
一緒に住んでいる女がいるにも関わらず、毎晩ふらふらと銀座や京橋に出かけて、何日か通ったあげく、店に泊り込んでしまう。もちろん、店にひとりで寝ているわけではない。
全編、こんなことの繰り返しである。こういうことは、太宰の小説には多いようだ。
小説はフィクションであったにせよ、伝記を読むと、こうしたことは現実にもかなりあったらしい。だから、まったくの創作ではなかったのだろう。
そう考えると、彼の苦悩は、実は女にモテすぎることに対する苦悩だったのかもしれない。
酒を呑んで、寂しくなって、つい女を誘ってしまう。そして、デキてしまう。そこが悩みのタネだったのじゃないか。
「人間失格」での苦悩。
なんとも羨ましいというか、忙しいというか。
ツライことなのかな。
こんなにモテたことはないから、実感は湧かないのだけど。
ショルティとシカゴによる「巨人」。
超合金演奏。
昔、超合金が流行ったことがあった。マジンガーZのものだった。
当時はなかなか高価なものだった。うちは特に裕福な家ではなかったので、高価なおもちゃは基本的には買ってもらえなかった。人生ゲームも、野球盤も、GIジョーも、友達はもっていることはあった。
だから、もっぱら友達のうちに遊びに行ったときだけ、触ることができたのだった。
でも、このマジンガーZは、例外的に買ってもらうことができた。なぜだったのか、当時はわからなかったし、今も思い出せない。たまたま親の気まぐれで買ってもらえたのかもしれない。
ずっしりとした重み。
テカテカの色合い。
すべすべの手触り。
こんなに高級なものが子どものおもちゃであっていいのかなあと、子ども心に思ったものである。
ショルティの演奏を聴いて、こんなことを思い出した。
最近、アンチェルの「巨人」を何回か聴いていて、ふと、ショルティの演奏はどうだったかなあということで、改めて聴いてみたのだ。
このショルティの演奏、どこから見てもどこで切っても、ムラのない整然とした佇まいがある。
メタリックな響きが全体を支配していて、技術的につけいるスキが見当たらない。
アンチェルとチェコ・フィルの演奏は、とてもいいものだけれども、テクニックということでは、ところどころ甘いところもあって、ちょっとあぶなっかしい場面もある。
でも、そういったところに、なんともいえない人間味というか風情があって、完璧ではないがゆえの味わいがあったりして、共感できるところでもあるのだ。
それに比べてショルティの演奏は、完全無比だ。技術的に指摘できる場面はないのじゃないかというくらい、完成されている。最初の、ロンドン饗とのものですら、これに比べればとても牧歌的に感じる。オーマンディとフィラデルフィアの演奏でさえ、手作りの味を感じるくらいである。
とくにすごいのは、終楽章の静かなところ。メタリックで付け入るスキがないのに、何故かなつかしい感覚を醸し出している。
こんなに完璧なのに、人間味からはほど遠いような演出なのに、暖かな情緒を感じるのが不思議だ。
シカゴ饗に就任したあとのショルティは決して強面ではなく、「完璧さへの情熱」に魅せられたきわめて実直な音楽家であったことを、この演奏から感じるのだ。
1983年10月、シカゴでの録音。
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