チャイコフスキー「悲愴」 フリッチャイ指揮ベルリン放送饗阪本啓一の「ゆるみ力」を読む。
日々生活してゆく中で、トラブルはつきものだ。胸がざらつくような感触につきまとわれない日はないといっていい。
著者は言う。「『思いもかけないトラブル』は、実はあなたの一番直視しなければならない課題を教えてくれる」。
なにか課題を与えられたとき、それをネガティブにとらえて真面目に向き合わないでいると、さらに同様の課題が身に降りかかってくる。よくあることだ。でも、誰が悪いわけではないし何かが間違っているわけではない。「そういうことになっている」。発生したトラブルは淡々と受け入れるしかないのだ。
マジックワードは「そうきたか」。
子どもが学校に行かない…そうきたか。急に転勤を命じられた…そうきたか。彼女から「もう終わりにしましょう」とメールがきた…そうきたか。部下が「明日から一週間休みます」とだけ書いたメールを送ってきた…そうきたか。
こう考えればトラブルも楽になる、かな?
今夕の夕立のあとの虹。
フリッチャイの「悲愴」はいくつかの録音があるようだが、これは1959年のスタジオ録音。
ライヴでの彼のチャイコフスキーは、燃え狂うようなテンションの高さに特徴があるが、これはスタジオのせいか、激しさはやや抑えられており、フォルムの整った演奏である。
それでも作曲者に対する思い入れがたっぷりとはいっていて、熱い。全体的にゆっくりとしたテンポを設定しているけれど、よくこなれているために遅さは感じない。ひとつひとつのフレーズをとても丁寧に歌わせていて、チャイコフスキーのメランコリックな世界をじゅうぶんに堪能させてくれる。
響きがサラッとしていてリズム感がよいから、くどくない。
全曲をとおして、いっときも耳を離せない緊張感に満ちた演奏である。
偶数楽章は特にいい。
2楽章は、憂愁を帯びたメロディーをたっぷりと響かせて、不思議な浮遊感がある。ロシアの居酒屋で、こんな音楽が流れていたら、さぞウォッカが進むことだろう。
圧巻なのは終楽章。ことにヴァイオリンは、ちょっと今まで聴いたことのないような、悲痛で輝かしい響きを炸裂させている。ものすごく密度の高い音である。ムラヴィンスキーとレニングラードの、切り込みの鋭いヴァイオリンもすごいものだが、こちらはもっと感傷的で、あたたかい血の感触がある。
もともとクライ曲の代名詞のような楽章であるが、この演奏は大悲劇を見栄を張って堂々と演じていて、立派なものだと思う。
欲を言えば、1楽章と3楽章は、もっと激しくてもよかったような気がする。
1959年9月、ベルリンでの録音
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