シューマン「詩人の恋」 フリッツ・ヴンダーリヒ(T) フーベルト・ギーゼン(Pf)池永陽の「珈琲屋の人々」を読む。
過去に地上げ屋を撲殺したことのある前科者の珈琲屋の店主を中心に繰り広げられる恋愛模様。
高校生から老人まで、さまざまな人たちが恋に悩む。悩みはそれぞれ重量級。彼らはふらっと珈琲屋に姿を現し、店主に事情を打ち明ける。
店主は寡黙であるが、人生の苦みを知り尽くした佇まいが魅力的。
これは7つの短編からなる連作であり、最初のエピソードが最後になってふたたび現れて、キッチリと締めくくられるところが心地よい。
フリッツ・ヴンダーリヒの歌でシューマン「詩人の恋」を聴く。
ローマン氏が書いた声楽の教本によれば、言葉は「口の中でとろけるキャビアのように」流れなくてはならないそうである。
とろけるキャビアという表現がいまいちわからないものの、言わんとするところはわかるような気がする。
それは、このヴンダーリヒの歌を聴けばわかる。とろけるような甘さを湛えつつも、情熱的な歌である。
「ぼくがきみの瞳を見つめると」や「ぼくの心をひそめてみたい」では、胸いっぱいの憧れを惜しむことなく、前面に押し出している。その情熱は「恨みはしない」で爆発する。ここでのヴンダーリヒの輝かしくも劇的な声は、いまさらであるが特筆に値するものであり、「詩人の恋」の録音史上にずっと残るものであろう。ここまでが前半。
「花が、小さな花がわかってくれるなら」からが後半。私は、そういうふうにこの演奏を聴く。熱い情熱はやや影をひそめていき、憂いが深く沈殿していくかのよう。「かつて愛する人のいたってくれた」での、少し引っかかるような歌いまわし、「ある若者が娘に恋をした」の気だるい感じ、「夜ごとにぼくはきみを夢に見る」のためいきのような倦怠感。どれもしみじみ腑に落ちる歌だ。
どうして今までこのディスクを聴かなかったのか。久々に悔んだ。
「水車小屋の娘」では今ひとつだったギーゼンのピアノは、ここでは気にならない。
1965年11月、ミュンヘン高等音楽院での録音。
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