白洲次郎の「プリンシプルのない日本」を読む。
テレビドラマになったり、本屋の店頭にまとめて並んでいたり、すいぶんとはやっているようだが、白洲さんは実はいったい何をやった人なのか、よくわからなかったのでこの本を購入した。どういう時代に生まれてどんな考えをしたかは漠然とわかったつもりになったが、どんな職業の人なのかはよくわからなかった。
巻末の、青柳恵介の解説を読んでようやくなんとなくわかった。
彼は、近衛文麿や吉田茂のブレインであり、ときには百姓であり実業家であったり、またときには文筆もこなした明治男。この本は戦後に文藝春秋に連載したエッセイをまとめたものであるらしい。
GHQを相手に対等にやりあったことが武勇伝であるが、政治に関する見識はまったく歯切れがよい。
「嫌な国だから、付きあいはしないなんていう様な考え方は、個人間のことならいざ知らず国際的には通用しない。又そんなケチな料簡では世界の平和は保てそうにない。話はそれるが中共の問題も同様である。中共という国が存在する事実は素直に認めるべきで、中共との国交も始めるべきだと考える」。
中共と国交は結んだ今とて、状況と変わりない。これは一例にすぎないが、彼が戦後の時代に提起した問題意識は、現代においてもじゅうぶんに通用するように思える。
半期に一度のル・スコアールの演奏会。
タンバリンが2つだったことを初めて知ったベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、ティンパニが大活躍だったベートーヴェンの第5に続くトリは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。
最初のころは割とおとなしめだったが、「大地の踊り」あたりからは、ぐんぐんと力を増していって、壮絶な音響世界になだれ込んでいった。
打楽器だけが前面にたった単調なものではなく、ときにはファゴットやクラリネットやら副声部が明確に主張する場面だったり、弦楽器群が繊細な弱音を惜しみなく披露するシーンが目を引いた。
ラストの、フルートの断末魔の叫びから余韻、そして最後の力を振り絞った全奏の締めくくり。ここは完璧であった。気合いの入った、幕切れである。プロでもなかなかこうはいかない。常日頃から音楽のよしあしは技術に尽きると思いつつ、生の演奏では事件が勃発しうる。はっきり言って、90年代に聴いたブーレーズとロンドン響によるものよりも感動的であった。生演奏で勝負を決めるのは、気合いによるところが大きいのである。
指揮者の田部井剛は、オーソドックスな指揮ぶりでもって、プロでも崩壊することがあるこの音楽をキッチリまとめあげていた。「音楽界の谷繁」、こちらも大試合に強いようだ。
2010年11月14日、すみだトリフォニー・ホールでの演奏。
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