音楽に思想はない。
思想とは言葉だからである。
よって音楽を聴くときは極力、作曲家の心情や、曲が作られた背景などの「物語」を持ち込むべきではない、と考える。
先日のゴーストライターの事件で悔しい思いをした人の多くは、「物語」を通じて音楽を聴いていたのではないだろうか。
聴いていたものは、音楽ではなく、広島の被爆者で耳が聴こえない人が大交響曲を作ったというストーリー。
いい曲であれば、作った人が被爆者だろうが健常者だろうが、あるいは大金持ちであろうが、作った人物の属性にはなんら関係のないことである。
「物語」を前提に音楽を聴くことは、無粋だ。
話は飛躍するが、オペラの聴き方もそれに通じると考える。
オペラを聴くとき、ストーリーはあまり鑑みない。ドイツ語であろうとイタリア語であろうとフランス語であろうと、どうせ聴いてもわからない。だから、「何を歌っているのか」を重視するのではなく、「なにが響いているのか」を尊重する。
歌手の歌も、フルートやチェロと同じように、ひとつの楽器だと捉えるわけだ。
日本でもけっこう前から、器楽曲とオペラとの批評をわけているメディアがあるが、それは正しいことのようでもある。私のような聴き方をするのなら、ひとつにまとめてしまってもいいような気もする。
そんな聴き方をしているからだろう。飲みこみが遅い。ショルティの「マイスタージンガー」の面白さを、通して7回聴いてわかった。
ここ3週間、毎日朝夕の通勤時間に聴いていたが、この2,3日でようやく面白くなってきた。
とはいえ、あらすじはなんとなくわかるが、セリフのすみずみまでは、とてもじゃないが理解できない。けれども対訳は読みたくない。単なるものぐさなのである。
でも、音楽のよさは一応わかっているつもり。
まずいいのは1幕の前奏曲。ショルティは同じころにシカゴ響とも録音しているが、それよりもよい。スタイルが鋭角的で激しい。ウイーンの豊満な響きに調和して絶妙な緊張感を醸し出している。
1幕のワルターの独唱(「始め!」と春が森に我らを)。70年代はコロの絶頂期だと思うが、ここでは素晴らしく力強い歌を聴かせてくれる。白金のように輝かしく、その煌めきは最上のトランペットよりも魅力的。ウイーン・フィルのねっとりとしたからみもいい。
2幕の聴きどころは、ラスト近くの騒然としたフーガ。うらぶれたリュートを伴奏にして歌われる、あたかも酔っ払いの歌であるかのようなベックメッサーのセレナーデ。悪くはないものの、何かが足りないような気がする。それはショルティの指揮も同じ。演奏は立派だけれど、何かが足りない。それがなにかわからない。この曲を多く聴いていないのでなんとも言えないが、クーベリック盤のほうが、開き直ったばかばかしさと臨場感の高さはある。
3幕はまず前奏曲。荘厳にして神秘的。深いコクのある金管群もさることながら、低弦の幽玄な響きがいい。ショルティのセンスが光る。
2場のザックスの歌は、豊満で威厳たっぷり。線の細いダーヴィトとの対比が面白い。
あとはなんだかんだと言って、ラストの高揚がおいしい。ウイーン・フィルの柔らかな響きと、ショルティの切れのいいリードが、ここでもうまくマッチしている。
バラッチュの合唱は、全曲を通じて安定しており、最上のプロの底力を感じないわけにいかない。
ザックス ノーマン・ベイリー(Bs)
ヴァルター ルネ・コロ(T)
ベックメッサー ベルント・ヴァイクル(Br)
エヴァ ハンネローレ・ボーデ(S)
ポーグナー クルト・モル(Bs)
ダーヴィト アドルフ・ダッラポッツァ(T)
マグダレーネ ユリア・ハマリ(Ms)、他
ウィーン国立歌劇場合唱団
合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1975年10月、ウイーン、ゾフィエンザールでの録音。
魚市場。
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