村上春樹の「職業としての小説家」を読む。
「もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」というよりはむしろ「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてみるといいかもしれません」
小説家になるにはどうしたらいいか、という手の本はわりと多く出ている。小説家志望の人は少なくないということだろう。帝国ホテルや山の上ホテルといった高級ホテルで缶詰めになって執筆する人(五木寛之、伊集院静)、キャンプや焚火を楽しんでそれをネタにする作家(椎名誠)、いつもお家にいる小説家(伊佐坂先生)など、傍目からみると、うらやましいかぎりだ。彼らのような人は全体のほんの一握りなのだろうし、ご本人たちは大変なこともあるのだろうけど、夢はある。
村上が神宮球場で野球を観ているときに、まるで天啓のように「小説を書こう」と思い立ち作家になったというエピソードは有名。そんな感覚で、その後も彼は、小説を書きたいときにだけ書く、というスタイルを貫いているという。出版社からの依頼で作品に着手することは稀であり、つまり締め切りもない。ということは、スランプになることがない。
それはひとつに「ノルウェイの森」が大ベストセラーになって生活に余裕ができたからできることなのだろう。でも、さほど多作とはいえないまでも、定期的に長編を出し続けているところは、第一線で活躍する小説家たりうる。
芥川賞や直木賞をとっても、長続きする作家はほんの一握り。小説家として長く続けることが、賞をとるよりも大変。それは村上に限らず多くの作家が証言している。
そのヒントが、冒頭の記述。「何かを求めていない自分」というのは、軽やかで、自由なもの。そうすれば文章ものびのびとする。
と、著者は云うが、なんだか禅問答のようでもある。
ベイヌム指揮コンセルトヘボウ管弦楽団、マーガレット・リッチーのソプラノで、マーラーの交響曲4番を聴く(1951年9月、アムステルダムでの録音)。
いつも質実剛健な演奏を聴かせてくれるベイヌムだが、ここでも濃厚なマーラーを披露する。立体的でエッジが立ってもいる。
彼が録音したマーラーの交響曲は、これと「大地の歌」のふたつと記憶しているが、他にあるのか知ら。
全体的にテンポは中庸、変わったことはしていない。川の流れのように滔々としている。弦楽器の厚みに加え、ホルンを始めとする管楽器群がとてもいい。雄弁だし、うまいし、響きが甘い。
とくに2楽章におけるホルンの闊達さは、ちょっと他では聴いたことがないくらい。味わい深く、くすんだ黄金色に陶然とさせられる。トランペットも、フルートも、オーボエもいい。
3楽章はことのほか美しい。芳醇な芳香を放つ、うららかな空気で満たされている。モノラル録音であるが状態はよく、細かい部分まで明瞭に聴きとれる。
リッチーの歌は生々しくて表情が豊か。なので天国というよりは浮世の利発なお嬢さん(おばさん?)といった感じ。
駐車場。
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