マーラー「復活」 ショルティ指揮シカゴ饗・合唱団 ブキャナン(A)ザカイ(MS)三田紀房の「個性を捨てろ!型にはまれ!」を読む。三田はヒット漫画「ドラゴン桜」の作者。帯には「世の中の常識なんざ、唾でも吐いとけ」と過激なことが謳ってあるが、本文はきわめてまっとうだ。
「世の中には、成功するための『型』がある。個性も才能もいらない。ただ用意された『型』にはまればいい」。
ここで著者が言う「成功」とは億万長者になることではなく大企業の社長になることでもない。
「普通に働き、普通に稼いで、普通の車を買って、普通の家に住み、普通に貯金しながら、普通の家庭を築く」。
「これらをすべて満たしているとすれば、もうそれは大成功と言ってもかまわない」。
とはいえ、普通のレベルに達することは容易ではないと言う。
同感である。
考えてみると、クラシック音楽もそうなのだ。ソナタ形式や三部形式なと多くの作品は従来の型にはまる。また楽器編成でも、器楽曲の多くは鍵盤だし交響曲の大多数は複数の弦楽器を要する。形式という型があることで長らく発展できたわけだ。それはひいては身長が5メートルの人間がいないように、思考も無限ではないということではないだろうか。
しかしそれを実生活に置き換えてみると、一筋縄ではいかない。私はフツーの勤め人であるが、これを実際に生きてみるとなかなか大変なことだ、まったく。
ショルティとマーラーとのにらみ合い。
ショルティとシカゴによる「復活」は80年の録音。シカゴ饗とのマーラー全集の仕切りなおし第一弾であった。
最初のロンドン饗との録音は、オーケストラをぐいぐい締め付けた強引ともいえる演奏で、若い頃のショルティの良さがじゅうぶんに発揮された演奏だ。それに比べると、シカゴとのものはだいぶスマートになった。あくまでロンドンと比較しての感想だけど。
ショルティが穏健になったのか、もしくはオーケストラのパワーが顕在的にすごいから力まなくてもよいという考えか。
スマートといっても、こんなに鋭角的なマーラーはショルティ以外にはなかなか見当たらない。この演奏は特に1楽章がききものだ。もっと絞っていえば、冒頭に尽きる。なんなんだ、このいきり立った切り込み具合は。触れたら指の皮が破れそうな鋭さと、激しくも透明感のある響き。血管が切れるのではと心配になるほどだ。この冒頭で勝負は決まったようなものだが、それ以降もショルティは決して手綱を緩めない。透徹していて、かつ凶暴なオーケストラの鳴りっぷりは、勘弁してよといっても許してくれない。でも、それがやがて快感になってゆく。
ショルティの指揮によるマーラーは底が浅いという意見がある。
確かに終楽章の合唱の扱いは、技術的には非の打ち所がないものの、もう少し粘って奥行きをもたせたほうがよいのじゃないかと思うところがある。でも、ショルティの意志の強い見識に裏打ちされた「型」を優先に進めればこういうやり方でいくしかない、という気がするのだ。逆に言えば、こんなに清廉な演奏もない。
ブキャナンのソプラノによる「おお、信じておくれ、わけあればこそおまえは生まれたのだと!」の部分は感動的。飴と鞭の効果だろうか。
合唱もオーケストラと同様にレベルが高い。
ショルティを語るうえではずすことのできない録音である。
1980年5月、シカゴ、メディナ・テンプルでの録音。
PR