フリッチャイ指揮ベルリン・フィル/ボロディン「だったん人の踊り」村上春樹が「グレート・ギャツビー」を翻訳/刊行したということで、一昨日から読売新聞で村上のインタビューが掲載されている。
本日は最終回だったのだが、芸術家に対する意見が、彼の独特の軽い口調で述べられていたのが興味深かった。
「天才と呼ばれる人々の個人的生活にはどんな規範や基準も適応できません。」
これは村上が几帳面で規則的な生活を送っていることに対して聞き手が問い合わせたときの答え。イメージでいうと、映画『アマデウス』の主人公のような人物が想像できる。
これは、天才に対するわりと一般的なイメージだとおもうのだが、どうしてそうなるかというと、後世のヒトが面白おかしい伝記に仕立て上げるからだろう。
さらに村上はこう言う。
「天才はどんな生活を送り、どんなひどいことをしてもべつにかまわない(もちろん芸術的な視点から言ってですが)。破滅しようが、若死にしようが関係ない。ただ素晴らしい作品を後世に残せばいいわけです。天才というのはそのために存在しているのですから。」
これも、私の天才のイメージに合うのだが、村上が言うとさらに説得力を増す。というか、どんな識者が語ってもこのような感想になるのかもしれない。天才はまさに凡人には想像つかない世界に生きているようだ。ベルリオーズが仮に愛人を撃ち殺しても、「幻想交響曲」の魅力は今でも変わらないだろう。
天才がそういった存在だとすれば、逆に社会的制約を背負っている私たち一般人のジンセイも、なかなかどうして厳しいものであるといわざるを得ないと思うのだが。
いや、制約に縛られるほうがラクなのかな?
そんなことを思う晩秋の夜なのであった。
ボロディンも天才に入るのだろうか? しかしこのヒトは化学者として生計を立てていたという素晴らしい社会的人物である。どうして、片手間で後世に残る芸術を残せるのか、不可解だ。才能ありすぎ。
このフリッチャイ盤、1952年録音のモノラルであるが、録音がすごくいい。この前に配置されているチャイコフスキーの交響曲も音がいいと思ったが、このボロディンはスゴイ。目隠しされたら絶対にステレオだと感じるだろう。フリッチャイがロシア音楽をやるときに時折見せる、感情のこもった有機的な荒れ狂い方が絶妙。★音楽blogランキング!★にほんブログ村 クラシックブログ無料メルマガ『究極の娯楽 -古典音楽の毒と薬-』 読者登録フォーム
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