高橋克彦の「梅試合」を読む。
舞台は江戸時代後期。ペリーは来襲するわ、イギリスの軍艦は来るわで慌ただしかった江戸。そんなとき、亀戸の梅屋敷で催しが始まる。「梅」をテーマにした俳句や川柳を募集して優劣を競い、優れたものには賞金を与えるというもの。これに江戸っ子は湧き立った。
それだけでもワクワクする。けれどもこの話はそれで終わらない。梅試合のドサクサにまぎれて、そうっと、怪しいことをたくらむ輩がいる。。
これが江戸時代の世相を反映したものなのか、本当のところはわかりかねるが、ラストはちょっとした立ち回りが演じられ、それがじつに粋なのである。これは、短いけれど気持ちのよい時代劇を観るような趣きがある短編小説。
ポリーニのピアノで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ30番を聴く。
この録音を中学の時に図書館で借りたLPで聴いたので、ずっと聴いたつもりになっていた。中学生が後期のピアノ・ソナタを聴いてわかるとは、ちゃんちゃらおかしい。
ポリーニは、ショパンの練習曲からバルトークのピアノ協奏曲1番2番あたりが全盛期だと思っている。まだ引退しているわけではないから今後はわからない。今現在では、そんなものじゃないかと。
ポリーニは、ベートーヴェンの後期のソナタを1975年から1977年にかけて録音している。私の尺度で言えば、全盛期のど真ん中ということになる。
中学の時に聴いたつもりになってから、およそ35年。疲れ切った中年男が、改めて聴いてみた。ポリーニの渾身のピアノを。
まず、音が若々しい。ケレン味がない。ピッチャーに例えればストレート中心で、たまにカーブを混ぜるくらいの組み立てだ。そして、あまり深みはない。水面をゆらゆらとたゆたっているようで、流れがとても自然。
録音は、比較的残響が多い。当時のポリーニの技量をもってすれば、残響は限りなく少なくても聴くに耐えると思われるから、これはDGの趣味なのかもしれない。
30番という音楽を最初は、冒頭のみずみずしくしっとりとした佇まいから、おとなしい曲と思っていたが、いろいろなピアニストの演奏で聴き比べていくと、なかなか激しい音楽なのだということが、今はわかっている。普段は口数の少ない女が意外に激情的であった、というとちょっと大げさかもしれないが、そんな感じ。最初のふたつの楽章に比べ、終楽章が異様に長いことも、これはただでは済まないぞ、という証のように感じる。
ポリーニはそのあたりを(たぶん)曲解していない。録音当時は33,4歳だったであろう。最初に述べたように、率直に曲と向き合っている。若い、と言ったら否定できない。ただ、この若者が、どんな思いでこの曲を弾いたのか、ということの一握りはわかる。当時のポリーニは飛ぶ鳥を落とす勢いのスターだった。だから、若いにも関わらずベートーヴェンの後期を演奏せよ、といったリクエストがあって、それに応じた。どういう気持ちで挑んだのかは知る由もないが、かなりのプレッシャーはあったに違いない。
というような詮索をした。そういった先入観なくとも、これは聴くに値するピアノじゃないかと感じた。引き合いに出して申し訳ないが、そりゃゼルキンやリヒテルみたいにはいかない。けれども、ここには怖いものを知りつつも高みに挑戦する若者の潔さがじゅうぶんに感じられるし、若い、ということを差し置いてもやはり捨て置けない魅力がここにはあるように思った。
1975年6月、ミュンヘン、ヘラクレス・ザールでの録音。
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