ベートーヴェン 11のバガテル ルドルフ・ゼルキン(Pf)本を読んだ感想をいくつか。
林望の「帰宅の時代」。林の著作を読むのは「イギリスはおいしい」以来だから、かなり久しぶりのことになる。
今の日本は、底の見えない不況や右肩上がりの社会の終焉など、景気の悪い話が盛りだくさんだが、林は「つくづく、いい時代がやってきました」と喜色満面だ。なぜかと言えば、いままでのように会社第一で滅私奉公的に生きてきた人生を見直して自分らしい生き方はなんだろうと考える時間ができたから、ということだ。
そこで自分らしい生き方をするにはどうしたらいいかということを以降の章で述べているが、けっこうこのヒト、上から目線なのだ。以下、果物や野菜の食べ方について語っている箇所。
「私などはブドウも皮ごと食べますし、果物ではありませんが空豆も皮ごと食べる。塩ゆでにした空豆の皮の、あのおいしさを知らずに皮を食べずに出している人を見ると、気の毒で仕方がありません」
空豆は皮を剥いて中だけを食べてもおいしいものだし、皮もけっこういける。面倒なら剥かずにそのまま食うだけのことである。気の毒扱いされてもねえ。
全体にこのような上から目線記述がかなり散見される。林の著作をしばらく読まなかった理由がわかった。
池上彰の「伝える力」。池上といえば「週刊こどもニュース」でおなじみである。毎週ではないが家にいるときはなるべく観るようにしていた。新聞を読んでもわからない経済の仕組みについてを実に簡潔にわかりやすく説明する技は、大人でもじゅうぶん観るに耐えるものであった。
なにかを教えることの難しさは、なにも子どもが相手だからではない。人にものを伝えることは、大人相手だって同じ難しさがある。
コンピュータシステムを知らない人に工程管理を教えるのは容易ではないだろうし、投資経験のない人にアセットアロケーションとはなにかを伝えるのはなかなか骨のいることだろう。
まずは自分が事象について深く理解すること。これがなされていればあとはなんとかなるものだ、ということを著者が最も言いたいことであると読んだ。
この本では、話をして説明する方法や記述で説明する方法についての技術的なハウツーについて大部分を費やしているが、これらは些細なことに過ぎないように感じたゆえ、読んだそばから忘れ去ってしまった。
さて、ここ2年ばかり「ディアベッリ変奏曲」に取り組んでいる。取り組むといっても、ときどき思い出したように流し聴きするくらいなのだが、これがなかなか難関である。
冒頭のワルツが親しみやすいので油断をしていると、どんどん暗雲が立ち込めたように見通しが悪くなり、やがて森の中に置き去りにされたような不安といらだちを覚えるようになる。ひとつひとつの曲はさして難しいものではない。実にまっとうな古典音楽である。とすれば、面白く聴くことができない原因として、全体の構成というか連関に問題があるのではないか、などと思う。もっとはっきりいえばこの曲は名曲ではないのじゃないだろうかと疑心暗鬼にすらなってくる。自分の聴き方は悪くない、あくまで曲が悪いのだ、と。
そこで冷静になって考えてみる。この曲の録音は多い。しかも錚々たるピアニストの手によるものが。ちょっと思い出すだけでも、リヒテル、ゼルキン、ポリーニ、グルダ、ブレンデル、アファナシェフといったところが出てくる。そうすると、先の自分の考えはグラグラと揺れてくる。
ベートーヴェンのソナタ全集を完成させているグルダやブレンデルはともかく、レパートリーを絞って自分の目にかなうものだけを録音するポリーニが、あえて駄作を演奏するだろうか。さらに言えば、あんなにベートーヴェンを得意としているのについに全集を完成させなかったほどに几帳面なルドルフ・ゼルキンの演奏する曲が、悪いなどということはあり得るのだろうか。貶したら天罰が下りそうだ。
よってこの曲においては、曲を理解できない聴き手に問題があることは問答無用に明白になるのである。
「ディアベッリ」はもう少し暖めておくとして、今日は同じCDにカプリングされているバガテルを聴いた。
作品番号は119なので、出版の順序は「ディアベッリ」の直前ということになる。ベートーヴェンの晩年の作品である。
こちらは「ディアベッリ」に比べるとかなり聴きやすい。短い曲の集まりであることはどちらも同じだが、バガテルのほうが明らかに親しみやすい。こちらがより自由な形式で書かれているせいだろうか。
音楽そのものは、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタのような彼岸の境地を思わせるほど、異様に落ち着いている。メロディーはどれも簡潔で穏やかに進む。音符は少ないのに、妙に心に染み入ってくる音楽だ。単純なだけに、演奏者は逃げも隠れもできないだろう。
そう、「心に染み入ってくる」というのは、曲もそうだがゼルキンのピアノに依存するところも少なくないのだ。
ピアノの音の素朴できれいなこと、そして弛緩することのない自然な流れとアクセント。派手さは皆無なので一見演奏者はなにもしていないように聴こえるが、これは入念な準備と細心の注意をもって曲のすみずみまで気を配り、計算をもって取り組んでいる演奏者のピアノである。いたるところ「これしかない」といったテンポと強弱が設定されている。それに加えて、ピンと張った音がみずみずしい。
1966年2月16-18日、ニューヨークでの録音。
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