ベートーヴェン後期弦楽四重奏曲 イタリア四重奏団ベートーヴェンの後期の作品からは、ときに20世紀風前衛音楽の匂いを感じることができるけれども、この最後の四重奏曲はそれがとても濃厚だ。
冒頭から世界が違う。
もう、なんでもありという感じ。それは、20世紀の一部の作曲家が脳漿を搾り出して生み出した露骨な物珍しさよりも、もっと奇異な感じを受ける。ソナタやロンドなどのいわゆる伝統的起承転結的な形式があたりまえだったスタイルを基礎としているところに、独自の創意を感じるからなのだと思う。
身長が10メートルの人間がいないことを考慮すると、人間には限界がある。よって、人間の作るもの、考えることの範囲は無限ではない。100メートルを5秒で走り抜ける人間が見当たらないことを考えると、音楽を聴くということについても、あるルールが必要ということになる。
時間軸の幅を持たせたら、音の組み合わせというものは無限に近いかもしれないけれど、その中で人間の生理に適うものは、ごく一部のような気がする。人間の生理の範囲内で、長い年月をかけて作られてきたものが、楽器であったり調性であったりソナタであったりするわけだ。
モンテヴェルディもバッハもハイドンも、伊達や酔狂でこういったものを編み出したわけではないだろう。
ワーグナーが無調の音楽を導き出したとはよく言われるけれども、ワーグナーの音楽そのものはごくまっとうである。どこから聴きづらくなったかといえば、個人的には12音音楽の発明あたりからである。
このへんから音楽は音楽というよりも哲学的な要素が強くなっていったがゆえに、聴きづらくなってゆく。ケージの「音楽で一番大事な要素は時間です」という言葉が決定打といえる。時間。確かに音楽は時間に取り込まれるけれども、これは哲学問答だよ。
20世紀のいわゆる前衛音楽の一部は、形式を軽んじたあまりに、なにか違うものを作っていったのだ。人間は空を飛ぶことなんかできないのに。
で、話を戻すと、ベートーヴェンは当時前衛だと言われたかもしれないが、人間生理の形式を踏み外していないところだけをとっても、まっとうな作曲家である。
形式を重んじるが、音楽はかなり自由になっていて、これは逆に言えば形式のなせるわざである。そう考えると、この最後の四重奏曲は、人間の生理に適った瀬戸際に位置するのかもしれない。
第2楽章なんて、いきなり聴くと取り付く島がない激しさに満ちている。でも全体を聴きとおすと、不思議な充実感がある。随分遠くまで来ちゃったなあと、思わず振り返りたくなるように、長いこと歩き続けたような疲労感を感じるのである。
イタリア四重奏団の演奏は、精緻な合奏力を基礎に、ときどき甘い響きを散らせる。剛健の中に華やかさがある。壊れかけたハードなこの曲に、いくぶんかのユーモアを持って取り組んでいるかのように聴こえる。
すっかり酔っ払いました。
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