レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィル土屋賢二の「ツチヤ学部長の弁明」を読む。
哲学研究者らしく世の中をハスに眺めた見解はここでも絶好調。自虐ネタが冴えわたる。ことに、女に対する見方は、ユーモアを混ぜつつ芯をとらえている。以下は、女の正義感が強いことについて。
「記憶をたどれば、ほとんどの男は小学校のホームルームで女子から『不道徳だ』『不正を働いた』と糾弾されたことがあるはずだ。先日、授業で学生に『恋人の男が道ばたに平気でゴミを捨てたらどう思うか』とたずねたところ、全員が『絶対に許せない』と断言した。だから、彼女たちにとってはゴミ同然の中年男が道ばたを歩くのを許すはずがない」。
確かに中年男はゴミ同然だからなるべく関わらないようにしているが、女性からみればワタシもゴミ同然なのだということを思い知らなければならないだろう。
バーンスタインの「幻想」は、フランス国立管での演奏を聴いたことがある。モヤモヤした録音のおかげで、音がひとつの大きな塊になっていて、霧のなかでゴソゴソうごめくような印象しかない。指揮者が目指したであろう激しさはいまひとつ伝わらない演奏だったように記憶する。
そういうことがあったので、このニューヨーク・フィルとの1度目の録音に対しては、あまり過度な期待はしないでおこうと思いつつ聴き始めた。
録音がEMIのものから十数年も前なのに、こちらのほうがずっと鮮明。細部がよく聴こえるからストレスがない。1楽章でのヴァイオリンのきついアタックや、2-3楽章のハープとコーラングレの雄弁さ、4楽章のチューバの強い自己主張、終楽章の黄泉の国のような大太鼓あたりに、指揮者の曲に対する思い入れが感じ取れる。
ところどころデフォルメしている場面はありつつ、音楽全体のバランスをうまくとっているので、フォームがしっかりしている。安定感がある。ラストは激しいが、理性の目が常に光っている。才気煥発。さりげない計算が、60年代のバーンスタインのひとつの特徴であるようだ。
1963年5月、ニューヨーク、マンハッタン・センターでの録音。
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フランス国立管とのものは、LP時代に聴いてピンとこなかったのです。録音があまりよろしくないので、CD化されればと思っていましたが、実際はそんなに変わり映えしなかったように思いました。
ニューヨークでこれだけ冴えた演奏をしているのに…やはり録音がいまひとつなのじゃないかと思います。
ミュンシュについて同感でございます。世評高いパリ管よりも、断然ボストン響のほうが冴えているかなと。54年、62年どちらもいいです。
ただ、昨年(一昨年かな)に出たパリ管とのライヴはよかったです。同じパリでもスタジオ録音とちょっと別物といった感じです。
他の指揮者では、ドホナーニとクリーヴランドの演奏を気に入っています。
ベルティーニのものも興味深いですねえ。