小林秀雄の対話集「直感を磨くもの」から、横光利一との対話「近代の毒」を読む。
この対話は1947年に行われた。
小林は諏訪根自子のヴァイオリンを聴いて感動したという感想を述べている。そのなかで、こんなことを云っている。
「だがあのヴァイオリンは偽物だと思うね。ストラディバリウスからあんな固い音が出て来るわけがない。腕が悪いとは思えぬ。十八世紀のヴァイオリンの音は少しも出ていない、イミテーションを貰ったと思う」。
諏訪は、1943年に当時のナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスから、ストラディバリウスを献呈されている。
真贋はいかに。
ストコフスキーの指揮チェコ・フィルの演奏で、バッハ・トランスクリプションズを聴く。
トッカータとフーガ ニ短調 Bwv565
前奏曲 変ホ短調 Bwv853
ゲッセマネのわが主イエスよ Bwv487 (≪シュメッリ歌曲集≫から)
コラール前奏曲≪われらは唯一の神を信ず≫ Bwv680
コラール≪キリストは死のとりことなれり≫ (カンタータ 第4番 Bwv4から)
パッサカリアとフーガ ハ短調 Bwv582
向かって左にヴァイオリン、右にチェロ、コントラバスを配置した「ストコフスキー・シフト」が生きている演奏と言える。それは特にトッカータとフーガに顕著で、左奥から音の塊が右に移動する様は壮観。オルガンで奏された大伽藍は、ここで新しい形となって再現されている。
前奏曲、シュメッリ、われらは、キリストは、の4曲はしっとりと歌い上げている。不勉強なものでこのあたりの原曲を聴いたことはないが、荘厳ななかにロマンティックな香りが濃い音楽になっている。大オーケストラでもってケレン味を狙った演奏ではない。ここでは厳格にして優しいバッハが20世紀に、確かに生きているように思う。
パッサカリアとフーガは逆に、右から左へと音が移る。これを聴くと、この曲をやるために「ストコフスキー・スタイル」を確立したのではないかと思う程、効果がある。バロック音楽を現在(といっても、もはや40年以上前のことであるが)取り組むとしたら、どういったスタイルで勝負すればいいのか、という問いのひとつの有力な回答ではないだろうか。
オケがチェコ・フィルなのが面白い。どういう経緯でそうなったのか知らないが、この東ヨーロッパを代表するとも言えるオーケストラが、当時からしてみたら斬新な編曲に対して真摯に立ち向かう姿は、敬服に値する。ことに、弦楽器のしっとりとした佇まいと金管の高い威厳が素晴らしい。
1972年9月、プラハ、ダム・ウメルクでのライヴ録音。
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